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マイアミのバーゼルにタカイシイより出品 [日記]

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タカ・イシイギャラリーさんから声をかけていただいて、彦坂尚嘉のデビュー作であるフロアーイベントの写真を、アートバーゼルマイアミビーチに出品しました。このアートフェアは、12月1日2日の2課間行われました。

 


アートバーゼルマイアミビーチは、スイスのアートバーゼルの姉妹イベントとして米国で最も重要なアートショーだそうです。 

北米、中南米、ヨーロッパ、アジア、アフリカからの250以上の主要なアートギャラリーが参加して、2,000人以上のアーティストによる20世紀と21世紀の作品を展示しました。 

 

 

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私が今まで関わったギャラリーは、どこも、私のフロアイベントに興味を持ってくれませんでした。コレクターも同様で、コレクターが興味を持ってくれたのはウッドペインティングという作品シリーズだけであって、フロアイベントは、だらにも見向きもされないできています。

その意味ではタカイシイさんが興味を示してくれて、マイアミのバーゼルに出品してくれたのは、大変にうれしく思いました。


 

 


日 本ラカン協会第10回大会 [日記]


昨日は日 本ラカン協会第10回大会で、幹事ということで早朝8時45分に専修大学までいって、夕方6時30分までいて、帰ってきました。


日本ラカン協会第10回大会プログラム

 日時:2010年12月5日(日) 10:00~17:00
 場所:専 修大学神田校舎7号館731教室(3F)
     (〒101-8425 東京都千代田区神田神保 町3-8)
 交通: 営団地下鉄・神保町駅 徒歩3分


会場の専修大学の7号館には、私の150号の油彩画が1階ですが2点かかっていることもあって、ご縁があるので、行くことには喜びがあります。

昨日も、休憩時間にしげしげと自分の作品『アトラクター・ペインティング』を見て芸術分析をしていました。YouTube画像では、21次元の作品と言っていますが、最近の彦坂の『アートの格付け』というのは、ついに150次元まで見つけているのです。その新しい『アートの格付け』で分析すると、専修大学にかかっている彦坂尚嘉の『アトラクター・ペインティング』というのは21次元から100次元まである作品でした。51次元から100次元というのは、人間の暗黒領域なので、そういう暗さが作品の中にあります。

東京都現代美術館に所蔵されているウッドペインティング『若葉』という作品は第1次元から6次元まである作品でこのウッドペインティング『若葉』の制作時に清らかで美しいのですが、それに満足しつつ、飽き足らない気持ちを強く持ったことを覚えています。その後の政策の方向が、暗黒面に向かっていったのですが、それが41次元の発見に至り着いて、この一連のブログになっているのです。

  1. 研究発表 

  10:00-10:45  萩原 優騎(日本学術振興会特別研究員PD)
                          「生命倫理をめぐる諸問題への精神分析的アプローチの可能性
                           ――脳死・臓器移植問題を中心として――」
                          司会: 福田 大輔(青山学院大学)

福田 大輔さんは、たいへん理性的な発表で優れていました。

概要:

生命倫理学では、「パターナリズムか らインフォームド・コンセントへ」という主張が展開され、医師と患者の関係性の見直しか図られてきた。

しかし、患者に選択肢の多様性が認められ、様々な医 療行為へのアクセス権が生じたということを、無条件に肯定してよいのだろうか。

そもそも、患者の「自己決定」とは何かということについて、詳細に検討する 必要がある。

発表の後の質疑応答は、今までに無く活発で7人ほどが発言して、私も参加しました。
18世紀のジョン・スチュアート・ミルにはじまる「自己決定権」というものを、今日の大量の自殺者と孤独死の状態の中で、素朴に肯定できるのかという疑問を述べました。ミルというのはリバタリアニズム(絶対自由主義)の祖というべき政治哲学者ですが、性転換手術のでの男性性器の切断などもそうですが、さらに「自己決定権」の議論の延長の中で、自殺が倫理的に容認できるのかという問題です。実は私自身はリバタリアンですが、しかしこの自殺の自由を倫理的にようにんするということには、少なくとも躊躇して議論を積み重ねる必要があります。

 11:00-11:45  向井 雅明(精神分析相談室)
                         「精神分析とニューロサイエンス ダマシオを巡って」
                         司会: 磯村 大(金杉クリニック)


アントニオ・ダマシオというのは、アメリカの脳神経学者・心理学者です。1944年、ポルトガルのリスボン生まれ。その著書『生存する脳―心と脳と身体の神秘』は、世界17カ国でベストセラーになっています。

1848年、米北東部の鉄道施設現場で事故が起き、鉄棒が1人の前頭部を貫通した。それを境にその人物の性格と行動は一変した。
この患者の症例をもとに、人間の脳が感情機能によって決断などの理性作用を作動させていて、デカルトのよう心身2元論があやまりであるという主張を展開しています。

興味深いのは、決断の遅い人とか、決断のできない人が私の身の回りにもいて、こういう決断のできなさが、実は理性脳の問題ではなくて感情脳の作用で決断の作用がされているという指摘です。なるほどそうなのか、つまり決断のできない人というのは、実は理性脳だけで考えているから、決断ができないのですね、納得。

さて、時間が来たので、シンポジウムについても書きたいのですが、以下は日本ラカン協会のホームページの記事をコピーだけしておきます。
は面白かったです。

  2. 昼休み  12:00~13:00


  3. 総会  13:00~14:00
      ① 議長選出
      ② 会務報告… 論集刊行に関する報告など
      ③ 決算(2009/2010年度)審議
      ④ 予算(2010/2011年度)審議
      ⑤ 次年度活動計画について


  4. 協会創立十周年記念シンポジウム 14:00~17:00

〈 ラカン思想とその現代的展開 〉

司会 : 川崎 惣一 (北海道教育大学釧路校)

提題者 : 原 和之 (東京大学)
   「トポスとロゴス―ラカンにおける言語観の転回」

提題者 : 立木 康介 (京都大学)
   「00年代のラカン派」

提題者 : 布施 哲 (名古屋大学)
   「現代政治理論におけるラカン
          ~E・ラクラウの民主主義理論を中心に~」


提題者 : 中野 昌宏 (青山学院大学)
   「言語の経済/経済の言語」

コメンテーター : 若森 栄樹(獨協大学)
                伊吹 克己(専修大学)
                      
                       各提題30分、議論・質疑応答60分

   ※ 提題梗概 ※


 トポスとロゴス―ラカンにおける言語 観の転回
原 和之 (東京大学)
 ラカンが既存の諸学の議論によってさまざまな補助線を引 き ながら成し遂げようとしたのは、主体と独立して存在する操作の対象ないし「道具」としての言語から、主体がその中で、或いはそれとの関わりで自らを位置づ けることが問題になるような「場所(トポス)」としての言語(ロゴス)へという言語観の転回であったと考えることができる。本提題ではこうした観点を提示 した上で、それが理論と実践において持ちうる帰結を考察する。


 00年代のラカン派
立木 康介(京都大学)
 本シンポジウムの趣旨には沿わないかも知れないが、ラカ ン の「思想」ではなく、ラカン派の「精神分析」について報告したい。ラカンを「思想」として受容するのではなく、あくまで「実践」として経験する人々がいな ければ、日本におけるラカン研究にはいかなる未来もない。
 フランスのラカン派精神分析のアクチュアリティに、主に 二つの観点からアプローチする。1/内部抗争(学派分裂)から外部との闘争へ。2/「応用精神分析」の前景化。これらの現象は不可分に絡み合っており、そ の同時性は必然的である。そこから浮かび上がるのは、今日の私たちがいかなるAと向き合い、いかなるS1に従属させられているかということにほかならな い。


 現代政治理論におけるラカン~E・ラクラウの民主主義理 論 を中心に~
布施 哲 (名古屋大学)
 ラカンの精神分析理論ならびに概念装置が、患者個人に対 す る治療実践のみならず、人間社会のイデオロギー分析に対しても有効な補助線たり得ることは、すでに多くが認めるところであるだろう。しかし、それが現代政 治理論、とりわけ政治変動のダイナミズムを分析する際に中心的な役割を果たしている例はといえば、おそらくエルネスト・ラクラウのラディカルデモクラシー 論をおいて他にはないだろう。敵対性(antagonism)を軸にした彼の民主主義理論を概観しつつ、ラカン理論の射程を再考したい。


 言語の経済/経済の言語

中野 昌宏 (青山学院大学)
 「無意識には否定がない」というフロイトの見解と,「無 意 識はひとつの言語のように/として構造化されている」というラカンの教説とを,われわれはどう整合的に理解することができるのだろうか。この問題のヒント になるのは,人間がある種の捩れたロジックに基づいていることを示す「行動経済学」の知見かもしれない。本報告では,その分野の研究成果や考え方を紹介 し,無意識の中で駆動している論理のあり方について,報告者の仮説を提示してみたい。

  5. 懇親会(会費:5,000円) 18:00~

          於 中華料理 東方園
    東京都千代田区神田神保町2-4-7 九段富士ビル B1F
    TEL :     03-5226-5108

コンピューターは空手だ! [日記]

今日は、中川晋介さんが来てくれて、
栃原比比奈さんから、オークションサイトのレクチャーを、私と一緒に受けてくれた。この程度の小さなサイトでも、大変な手間と手続きが必要で、驚くのだが、繰り返しいじっていると、少しはわかってくる。

実は前にドリームウエバーのレクチャーも、3人の先生から間をあけて受けているのだが使えるようには、一時期はなっても、すぐに忘れてできなくなっている。

つまり今回思ったのは、コンピュターの使用技術というのも、空手の訓練と同じで、やたらに精密で、繰り返しが必要なので。空手という比喩がまずければ自動車の運転技術と行っても良いのだが、とにかく体で覚えるまでが大変なのです。

ふらふらと迷走しながらですが、気体分子ギャラリーは、作家の制作と絡みながら、少しずつですが成長してきてはいます。

作家も、実は作品を毎日作りたいとか、作品を売りたいとか、作品を展開して成長させたいという欲望を持つ人は少ないのです。ほとんどの人は、ナルシズムと自己憐憫の趣味の制作に溺れている。

プロとしての美術そのものも、空手や自動車の運転同様に大変にむずかしい上に、それを他人に伝えようとすると、きわめてむずかしくて、複雑でしたたかな成長が必要なのです。

日本の観客の多くは、美術は買わないのですが、買わない人々を切り捨てるのではなくて、買わない人々を説得する作品を制作する努力は必要で、その根気の良い展開の中で、人類の歴史の中の美術のありようの認識を深めていければと思っています。

制作とは芸術を探求する厳密な学問なのです。

さて、気体分子のオークションも少しずつですが、性格も、細部の様相も変化していきます。それは買わない多数の観客とのコミニュケーションを求めての試行の過程なのです。変貌の理由や細部に着いては、できるだけ説明もしたく思いますが、今日の多くのアプリケーションのバージョンアップが使用者の承諾や使用者への説明抜きに展開しているように、内部の探求の結果ですので止む終えないものとして受け止めていただければと思います。


電車の中で [日記]

電車の中で書いています。iPhoneから、So-netのBlogが書けるようになったのです。

無題 [日記]

作品というのは、むずかしいと思います。
今回の気体分子ギャラリーのオークションの作品は、
本人は気に入っているのですが、一般的には無理で、
分かりやすくするために、一般性を持たせようとすると、
それは出来るのですが、
その作品が嫌で立ち往生することになったのです。

分かり安いものに、操作は出来ないのですね。

20世紀美術史/アートスタディーズの単行本(加筆1) [日記]


アートスタディーズも次回は19回です。
最終は1回番外があったので、第21回になります。

1年以内に3回を終わらせ、終了したいと思っています。

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終わりにあたって、単行本を考えています。

アートスタディーズの単行本化の話は、初期段階から模索してきています。アートスタディーズの前に行われたリノベーション・スタディーズは2冊の単行本になっているので、その実績をくりかえしたいというのが目標としてありました。

何人もの編集者と話して来ましたが、何人ものゲストのレクチャーとシンポジウムを本にするのは、現在の出版状況ではなかなか困難という反応が、異口同音に帰って来ました。特に最近は、書店の売り上げが落ちてきていて、まじめなアートスタディーズのような出版企画その物が、困難な状態になって来ています。

そういう中で五十嵐太郎さんよりご紹介された編集者がありました。


最初の話は、五十嵐さんのアイディアで、「年表部分だけでも本に出来ないか?」という事でした。

年表というと、私が企画して1972年に美術手帖で実現した『現代美術の50年』という400頁のものがあって、これは空前絶後のもので、40年経っても、これを乗り越えるものは出て来ていないと自負する気持ちが私にありました。

実はこの『現代美術の50年』400頁の出版も、くりかえし出版社にあたっていて、実現できていないものなのです。それを、今回の編集者に見せたところ、電子出版という形でCD付きの本という形で、検討して下さって、今回、実現に動き始めました。

つまりこのアートスタディーズでの年表と『現代美術の50年』を統合して、これを補足する形で、紙の本の出版300頁以内のものを出版する。つまり1970年から彦坂尚嘉が追求して来た「20世紀日本美術史」の単行本化が、実現するのです。

条件としては

20世紀100年間の年表を、彦坂尚嘉、五十嵐太郎、中島理壽氏、橘川英規氏、さらにアートスタディーズのパネリストの協力で、8ヶ月程度でCD収録という形でまとめあげる。画像は五十嵐太郎撮影の写真を中心に、著作権でひっかかるものは作品の題名だけか、インタネットのリンク等を考える。


つまりCD付きの紙の方の本なのです。
版型は、A5。
内容は読み物としての本にします。
出版としては彦坂尚嘉と五十嵐太郎の編著とする。

そのためには実現化を優先して、最短で、最も簡単な形で、1年以内のめやすで刊行を実現する方針です。その為に、アートスタディーズで出して来た小冊子の文章の再録を基本に組み立てます。2頁の見開きで、建築と、美術を、彦坂尚嘉と五十嵐太郎が書いて来た5年ごとに記述した文章を再録するのです。

ゲストの方々については、A5で1頁の文章を、もういちど再記述していただく。パネリストの方々にも、A5で1頁の文章を書いていただく。

最後に南泰裕さんと彦坂尚嘉がやってきた「建築と美術のあいだ」という2回のシンポジウムの
原稿が起きて、白濱雅也さんによる編集が終わっているのですが、これを収録するという方針が、いまのところの概要です。


1年で実現するというのには、私の責任が非常に大きなものがあります。他の出版も抱えていますし、作家としての活動もあります。私が転(こ)ければ、実現できません。死ぬ覚悟でやらなければなりません。実際に死ぬでしょう。それほどに20世紀100年の年表編纂は大変な作業です。私はそのことを知っているのです。

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ここからは、彦坂尚嘉の愚痴です。
私は1971年から1972年の美術手帖で、刀根康尚氏と『現代美術の50年』の年表とそれに関連する記事をたくさん作る事で、多くのダメージを受けています。

美術界からは疎外と、無視の道に入ったのです。今回の単行本を実現しても、日本の文化状況の中では誰も評価しないことは知っています。何か根本のところで、私自身は戦後日本社会の通念からは、決定的にずれてしまっているのです。

にもかかわらず情報化社会への転換を自分の運命として引き受けて、日本美術史の再編を「20世紀日本美術史」として追求する理由は、日本の敗戦を乗り越えるためです。「20世紀日本美術史」という枠組みの中には、戦前/戦後が連続していて、敗戦が断絶ではなかったことを明示する必要があると考えます。

つまり「戦後美術史」という従来の枠組みを解体して、戦前と戦後を連続させる「20世紀美術史」の歴史観を成立させたいのです。

それは同時に「大日本帝国」と「日本国」という2つの国家の連続した構造を明らかにすることです。

戦前の国家神道と、戦後の《神道の無化》は、実は銅貨の裏表に過ぎなくて、20世紀の近代日本の同一の構造体に封じ込められているのです。

私たちは、この近代日本国家神道の構造の外に出る必要があるのです。

敗戦後の《ネガティブな国家神道》の中で、岡本太郎に象徴されるような《敗戦による原始美術への退化現象》が起き、これが日本の戦後美術の混迷と低俗化を押し進めて来たのです。あまりにも多くの美術家が《第6次元 自然領域》に止まっています。それは現代音楽家にも見られる事で、《第6次元 自然領域》が日本文化の構造であるかのような思い込みが蔓延しています。日本社会は《6流》の野蛮社会であるかのような社会通念は、迷信に過ぎません。歴史的に日本美術史を振り返れば、《超次元》の美術は、中国美術よりも多いのです。この事実を、私自身が直視しておきたいのです。
 
普通の意味での日本の現代美術家としては無意味なことをやるのですが、しかし歴史的にはヴァザーリの 『名匠列伝』や土佐光起『本朝画法大伝』、狩野光納『本朝画史』、狩野永真『画道要訣』など美術家が美術史を書いて来たのであり、20世紀を通史として、事実を事実そして見ることによって、「戦後美術史」という従来の枠組みを解体しようという私の試みは、美術家としては正統性があるのです。

しかしこの正統性は多くの人=大衆には理解されないし、私自身の美術家としての成功には、逆作用しか起きない。それを知っていてもなお挑むのは、ですから大衆的には理解されない欲望なのです。人間の欲望には、《大衆の理解できる欲望》と、《大衆には理解できない欲望》があるのです。《大衆には理解できない欲望》をあえて言えば、使命です。建築家が良く使う言葉で言えば「ミッション」です。

しかも、この本を出版したとしても、この本は多くの非難をあび、この本は多くの誤りと偏見を含んでいるとされて無視され抹殺されるでしょう。それを知っていてもなお、無意味に挑むのは、何故なのか? 

「何故なのか?」と自分自身に問う時に、それを事実としての勤勉な作業を厳密な思考の積み重ねで実現して乗り越えて行く実践者としての自分自身の構成に他ならない事を知ります。今回このチャンスを与えてくれた五十嵐太郎さんと、編集者のDさんには深く感謝します。二人への信頼を裏切らないように、勤勉に戦わなければなりません。

最終的には、多くの賢者が言うように、自分自身との闘いしかないのです。
自分自身と戦い切ることが出来るのか? 
それとても、3日も続かない挫折に終わるのです。人間が生きる目的とは、この挫折を超えることだけではないでしょうか。つまり真の敵としての自分自身と向き合い、倒し、止めを刺すこと。こういう自分を殺そうとする私的な欲望こそが、誰にも言ってはいけない真の目的なのです。つまり自分自身を殺し止めを刺そうとする欲望こそが《大衆には理解できない欲望》なのです。

イギリスの貴族は、戦争の時に自分の子供を軍の先頭に出して、自分の子供を死地に追いやって来ました。自分の子供を殺す欲望こそが《大衆には理解できない欲望》なのです。

子供という自分の遺伝子を残そうとする欲望こそが、生物としての正統な欲望ですが、イギリスの貴族は、この生物としての欲望を殺すのです。ここに《大衆の外部》が成立します。《大衆の外部》には死があるのです。この死を受け入れる事が重要なのですが、しかし大衆は理解しないのです。理解しなくても、大衆もまた死んで行くのです。結論は同じ《死》なのです。結論が同じである事が重要です。

死を受け入れるものと、死に怯えるものの差です。

怯える限り、混迷は続きます。
怯える者には混迷しかありません。

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怯えなくて、良いのだと思います。
リラックスをして、選択して決断して行けばよいのです。

出来ることしかできないのですから、
出来る範囲で、誰が何を言おうと、自分がやりたい事をやれば良いのです。迷う必要はないのです。

スタートレック(2009) [日記]


さて、無事に帰って来ましたが、深夜バスでの往復は、さすがにくたびれはてました、旅行目的に一つにあった石上純也さんの豊田市美術館の展覧会が、月曜休館で見損ないました。残念!、もう一度チャレンジするのですかね? 頑張りましょう。次も深夜バスですかね?

さて、深夜バスのシートは良くなっているし、おまけにビデオを見られる小さなモニターが、ひとり一台づつ座席についていました。といってもくだらないものばかりで、唯一見られたのは「スタートレック」の映画版11作目でした。



この第11作目のスタートレックの予告編は見ていたので、このチャンスにとばかりに、見ましたが、そうとうにつまらない映画というか、くだらないものでした。

私は子供の頃にスタートレックは、日本のテレビでの連続ものとして見ていて、ほとんど全部見た世代です。ですので、映画版も見てはいますが、やはりオリジナルを愛する世代です。特にこの劇場映画版11作目は、スタートレックを見ていない監督作品で、なんともスターウォーズ化していて、スタートレック本来の心理学的エンターテーメント性が弱くて、納得できないものでした。スタートレック・シリーズも、もはや終わりです。エンタープライズの時代も、終わるのではないでしょうか。とはいっても、あと千年くらいは駄作のスタートレックは制作され続けて行くのでしょうが。

大金をかけて、つまらない映画が量産される事の不思議さは、人間社会の不思議さとともに、その本質を示している事なのだとは思います。

多くの人間は、実はつまらない作品が大好きなのです。そのことは重要なことであって、そのことの事実を重視しなければなりません。

重視するというのは、それは事実であって、つまりそのことに怯える必要はないのです。膨大な凡作の中に、奇跡のような秀作があるのであって、その貴重な秀作を見つけるために、多くの愚作もまた見なければならないのですから。愚作も見なければならないと言う、苦行に耐える精神も重要なのです。

同時にどれほど多くの人が見ようとも、愚作は愚作なのです。

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あいちトリエンナーレにしても、先日の瀬戸内芸術祭にしても、多くの観客が見に行っていて、経済効果は高かったとは思いますが、同時にそれは一つの終わりなのです。大量の大衆が賛同すれば、それは空虚であって終わるのです。小泉 純一郎政権のようなものであって、大衆の支持の結集は、空虚に至るのです。

大衆の根底には空虚があって、その空虚に向って人々は群がるのです。それは集団自殺に似ています。集団自殺して終わるのですが、それがゾンビになって生き続けて、延々と千年くらい続いて、千年王国と言う天国のような凡庸世界を作るのです。

現代美術に大量の大衆が集まるのは、現代美術が終わっているからではないでしょうか。終わることによって、実は社会の根底に有る社会通念としての美術や芸術が変貌して来ているのです。この社会通念としての美術や芸術の変貌が、次の時代の高度な芸術の成立に寄与するのです。そういう意味で大衆の海の変貌は重要な事です。いま、大衆と言う海が変貌して来ているのです。この現代美術の死体の海が千年続くという時代が、現在なのです。

この海の上を、キリストのように歩き、モーゼのように海を割る事が必要なのです。

凡庸普遍主義の海を怯えてはならないのです。凡庸さもまた変貌して来ているのですから。


名古屋の漫画喫茶から [日記]

 東京駅近くのブリジストン美術館の前から深夜バスに乗って、名古屋に行きました。バス料金には、ホテル代とともにサウナが付いていて、朝5時半に名古屋について、そのままサウナに直行というスケジュールでした。

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 名古屋の漫画喫茶から書いています。

iPhoneのgoogleマップで漫画喫茶を探して歩いたのですが、これがけっこうな作業で、30分ほど歩いてようやくたどり着きました。

 昨日は大雨で、故山田幸司さんを追悼する建築系ラジオの収録も、たどり着くまでに大変で、タクシーもなかなか見つけられなかったのですが、なんとかはなって、未亡人にもご挨拶ができました。

 最終日であった名古屋トリエンナーレも、愛知県美術館だけは見られて、見てよかったです。荒っぽいものでしたが、観客の動員には成功していて、とにもかくにも現場を見ておくことは重要です。コンテンポラリーであり続ける努力は、し続けたいと思う私には、満足の行く旅行でした。

 ヤマザキマザック美術館は、実際に見てみると、なかなかのコレクションで感心しました。ロココから印象派、そしてエコールドパリの作家をよく買っていて、芸術的に優れているのはスーティンを6~7点買っていて、感心しました。個人的にもスーティンは好きで、特に風景画が好きですが、その中で1点はすごい作品がありました。

 あと、クールベの波が1点あって、クールベは科学絵画でありながら、同時にペインティングナイフでの描法で描かれていて、改めて、自然主義リアリズムという名前では入りきれない幅のある画家の面白さを確認しました。

 ガラスのガレのコレクションもすごい量があって、その中に2点ほど晩年の秀作があって、これも感心しました。

 もうひとつアールヌーボーの家具のコレクションが良い内容と規模の大きさで見事でした。

 全体には、大衆芸術やイラストレーション、デザインの作品が多くて、ある意味では今日的というか、長谷川裕子氏的な内容であって、ある意味で昔から長谷川裕子は存在し続けていたことを示しています。そういう意味で長谷川裕子氏の感性は普遍的であるのです。

 


名古屋への旅行 [日記]

昨日は東京都現代美術館の「トランスフォーメンション」展のオープニングに行って来ました。瀬戸内への旅行が5日と長かった事もあって、体調不良になっていて、ブログの更新が出来なくて失礼しました。

実は明晩は、深夜バスで名古屋まで行かなくてはならず、かなり問題なハードスケジュールが続きます。オークションが心配ですが、何とか続けたいと思います。
名古屋には4つ用事があって、一つが石上純也さんの豊田市美術館の展覧会を見る事。もう一つが坂上しのぶさんが立ち上げたヤマザキマザック美術館を見る事。
3つには故山田幸司さんの一周忌の追悼の催しに出ること。4つには「あいちトリエンナーレ2010」を見る事です。

明日10月30日の晩に夜行バスで出て、一泊して11月1日の夜11時過ぎに帰って来ます。帰りもバスです。「あいちトリエンナーレ2010」は最後ですので、見られないかもしれません。

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「ダンボール茶室から考える建築とアートの可能性
  産業遺産活用からのアプローチ」 公開収録のお知らせ



<日時>
2010年10月31日(日)14:30-16:30
(13:30-14:30と16:30-17:30の2回、ダンボール茶室を囲んでの大茶会も行う予定です)

<会場>
岡谷鋼機株式会社・第三倉庫
住所:愛知県名古屋市中川区舟戸町
(アクセス方法は、下記を御覧ください)


<テーマ>
「ダンボール茶室から考える建築とアートの可能性」

建築家山田幸司氏によるダンボール茶室は、時には大胆な行動力によって、時には精緻な職人的手立てによって、私達の日常を取り巻く事象の可能性を最大限に引き上げる氏ならではの方法論が体現された作品です。

全体討議は、まず、産業遺産を活用した中川運河キャナルアート開催にあたっての実践的な視点で地方の都市再生の可能性を討議します。

更に、今回が最後の一般公開となる山田幸司氏のダンボール茶室から、モノ・コト・トキ・ヒトに向かう氏独特の方法論を再考しつつ、建築の可能性、アートの可能性を討議していきます。

<スケジュール>
13:30-14:30
・ダンボール茶室を囲んでの大茶会  
 一席、300円でお茶とお菓子がいただけます。  
 建築家山田幸司氏の作品の数々を映像と音声でご紹介します。

14:30-15:00
・建築系ラジオ公開収録  
 「中川運河キャナルアートにおける産業遺産活用」  
 コアメンバー/五十嵐太郎、南泰裕、北川啓介、松田達  
 ゲスト/服部充代、村上心、田中大介(中川運河キャナルアート実行委員会)  
 司会=北川啓介

15:00-16:30
・建築系ラジオ公開収録  
 「ダンボール茶室から考える建築とアートの可能性」  
 コアメンバー/五十嵐太郎、南泰裕、北川啓介、松田達  
 ゲスト/村上心、服部充代、ほか  
 司会=北川啓介

16:30-17:30
・ダンボール茶室を囲んでの大茶会  
 一席、300円でお茶とお菓子がいただけます。  
 建築家山田幸司氏の作品の数々を映像と音声でご紹介します。

<参加申込み>
参加無料、聴講自由、予約無しでどなたでも聴きに来れます。
直接会場にお越し下さい。
(今回は中川運河開通80周年記念事業 中川運河キャナルアートの一環で開催します)

<定員>
80名

<アクセス>
中川運河キャナルアート・岡谷鋼機株式会社 第三倉庫会場
・名鉄名古屋本線「山王駅」から徒歩で10分
・近鉄名古屋線「黄金駅」から徒歩で15分
・名古屋駅、金山駅からタクシーで10分
・会場に駐車場がございませんので、交通機関でお越し頂くか、  
施設周辺のパーキングをご利用ください。

<中川運河キャナルアート>
尾張名古屋の産業遺産ともいえる中川運河でアートイベントを展開することにより「アートとの融合がモノづくり名古屋の未来を拓く」という価値・信条を発信すると同時に、中川運河を新たな都市軸として、水辺空間を最大限に生かした街づくりムーブメントへと発展させていきます。 ダンボール茶室は、10月30日(土)と31日(日)の両日、展示しております。
10月31日(日)の建築系ラジオ全体討議終了後には、建築家青木茂氏のご息女で現代能パフォーマーの青木涼子氏をお迎えし、ストラスブール在住のフルート奏者の大久保彩子氏との「現代能+現代音楽」も披露されます。

<主催>
建築系ラジオ http://www.architectural-radio.net/
中川運河キャナルアート実行委員会 http://www.canal-art.org/
(表示されない場合は、再読み込みをしてください)

<後援>
愛知県・名古屋市・名古屋港管理組合・名古屋都市センター

<協力>
岡谷鋼機株式会社

<問い合わせ先>
info@architectural-radio.net


記念写真/瀬戸内国際芸術祭ツアー(改題) [日記]

建築系ラジオ/瀬戸内芸術祭ツアー.jpg

ツアーは30人という大きなツアーでした。船をチャーターできたことと、プロの添乗員が着いて、快適なツアーでした。

下の建築系ラジオの収録には、私は入っていません。一日遅れで参加したためです。それでも面白いので、ご紹介しておきます。


テーマ討議

収録日時:2010年10月22日
収録場所:香川県香川郡直島町向島
収録時間:40分39秒
ファイル形式:MP3形式
ファイルサイズ:19.5MB
PLAY出演者:入江徹+吉田民瞳+片田江由佳+糸崎公朗+近藤洋輔+五十嵐太郎+吉岡佑樹+谷村仰志+中川晋介+北川啓介+松田達

建築系ラジオによる瀬戸内国際芸術祭2010ツアーにおける収録です。犬島と直島をめぐった第1日目の夜、ツアー参加者はそれぞれ何を感じたでしょうか? 今回は建築系ラジオスタッフも多く討議に参加しています。犬島では、柳幸典/三分一博志による「精錬所」、柳幸典/妹島和世/長谷川祐子による、犬島・家プロジェクト(F邸、S邸、I邸、中の谷東屋)など、直島では直島銭湯(大竹伸朗/graf)、直島・家プロジェクト、李禹煥美術館(李禹煥/安藤忠雄)などを見学しました。特に妹島さんらのS邸、安藤さんの李禹煥美術館が話題にあがります。(編集部)


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