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コメントと、お返事 [アート論]

初めてコメントさせていただきます。

「美術というものに対して個人的な感情移入を下さない、直結的、構築的な芸術理論」いうものを、わかりやすく  明確な方法で提示してくださる方の下で勉強し直したいと思っていたところ、先日こちらのブログを見つけまし   た。


米国の美術学校を出てイラスト兼アートの道を自分が個人で持つ仕事と同等に志していたのですが、モダンアート  と呼ばれるものに付属する批評、哲学、美学など全てを引っ括めたことに対する「判断の標準となり得る考え方  (普遍的、平等な判断位置)」が、美術研究に値するだけのありとあらゆる英語、日本語の美術書を探しても答えら れるものが無く、最近まで混乱状態に至っていました。



ここ数日ブログで集中的に勉強させていただき、つかみどころのない答えなのかと諦めかけていた答えが、ほぼ一瞬にして明瞭になったと改めて驚いています。(今は特に象徴界の視点という部分を読み進めています)彦坂先生に、膨大な量の情報を提供いただいたことに敬意を示すと共に、深く感謝いたします。



 美術の普遍性を理解しない人の方がプロアマ問わず美術家で大多数なのは、若い世代に入る私も今日ある程度理解していることです。

 そうなのですね。特に日本の場合、芸術の理解が錯綜しているのです。その大きな要因の一つが、自然の理解にあります。自然性に芸術を見てしまうのです。それがバサラです。日本の中には岡本太郎の言説を含めて、原始的なものに還元して行く事を芸術と錯誤するのが、一般なのです。
 もう一つが骨董です。骨董的な前近代への退化性に、芸術を見てしまうのです。
 最後が《第16次元》という崩壊領域の救心性を、芸術だと思ってしまうのです。
 
普遍性が本当に理解できているのかわからない自分が、しかし「それ」をわかっていて、わからない他人に全てを委ねることをせずする勉強が今まで必要だと思っていました。芸術に関わる人間それぞれ、個人が持てる向上心を持続させながら疑問を目の前に糸で釣って、最後までその何かを追っていくしかないと思っています。自分を含め、疑問を捨てた時、人はそこで止まる、というふうに承知しています。

「非実体性」。これは判定法をとってみても完全な理解に及ぶには非常に難しい芸術構成要素だと感じました。昨夜いくつか絵画の比較をしながら唸りました。ですが難解不明瞭=新発見に繋がるという点では際立つ要素であり、まさに謎かけの要素です。この意味をさらに噛み砕いていくのが今後楽しみでもあります。

さて、本日またさっきブログを拝見させていただいたところだったんですが実はお礼を述べて立ち去ろうと思ったら、キチガイという言葉がここぞとばかり連呼されており(かなり自虐的ですけど)ちょっと仰天しております... 
これ日本では現在使われるべきではない言葉と認識していますが(英語だとpolitically incorrectですね)先生には何か思うところがおありで、今後の反応に関わらず使用されるのでしょうか??
(こういう時だけ異常に神経張り巡らせて騒ぐ方多いですし、後々大変かなあ、と思ったので書いてみました。)

コメントですが、特に認証して載せていただく必要はありませんが、もちろん載せていただいても結構です。 
by M.S. (2010-07-21 18:32)  

こちらこそ、読んで下さってありがとうございます

直結的、構築的な芸術理論」と言っていただくと、見が引きしまりますし、本気でそういうものを執筆して出版するところまで持って行きたいと思います。下記はその草稿の一部として、コメントに反応したものです。


ご指摘のように、モダンアートに関する批評理論というのは、多くの問題を持っています。初期のボードレールやオルテガの著作はすぐれているとは思いますが、しかし、人類史の視点から、一貫して説明したものは無いのです。特にデュシャン以降の問題は、根本的な錯誤の中で多くが論じられているので、混乱はいっそうにひどくなります。
 グリンバーグのフォーマリズム批評は、実はモダニズムの過激化として、問題の所在を明らかにしているすぐれたものですが、しかしそれは等のモダニズムそのものであって、それを歴史的に分析し解析することは、実は別の事なのです。つまり後から理解しようとすると、何が行われたかが分からなくなるのです。

世界は、実は《第100次元》、正確には+1の101の次元を持っています。《近代》という時代は、これを2つに割ったのです。それがソヴィエトを中心とする計画経済であり、反面がアメリカを中心とする自由主義経済であったのです。

いわゆる「冷戦構造」こそが《近代》であって、この2つに割ると言う核分裂によって、《近代》はエネルギーを生み出したのです。

自然はデザインである。

原始表現はデザインである。

工業デザイン等々の多くは、人工的自然である。

 彦坂理論の特徴は、まず自然採取の原始時代の表現を、《第6次元 自然領域》であると測定して、これらはデザイン的エンターテイメントであって、芸術ではないと《言語判定法》で判断を下しています。これらのものは《想像界》で作られています。
 重要なのは、自然は、大宇宙やナイアガラ瀑布、グランドキャニンオン、そして人体その物まで含めて、芸術ではないという事です。つまり神が作くりし自然は、デザイン的エンターテイメントであって、芸術ではないのです。
 イギリス経験論の完成者デイヴィッド・ヒュームは、「神が世界をデザインした」ということを論じているので、自然をデザイン的エンターテイメントであるとする彦坂の理論は、その延長に位置しているのであって、普通の日本人が思うほどには奇異なものではないのです。

つまりグラフィックデザインとか、工業デザインというものは、実は自然であり、原始であるものが、多くあると言う事です。言い換えると、人工の多くは人工的自然であるのです。人工的な自然として、文明の多くの人工物があるということが重要なのです。つまり高速道路は人工的な自然であり、無印良品も人工的な自然であり、グラフィックなモダンデザインのほとんどすべてが人工的自然なのです。

芸術の発生としての《原芸術》の重要性。

はじめにすべてありき」であって、《原芸術》の発生が重要です。
日本で言えば、岡本太郎が絶賛した縄文中期の火炎式土器は《第6次元 自然領域》で、デザイン的エンターテイメントであって、芸術ではないのですが、その後の後期縄文式土器の、抑制された円形の壷は、《原芸術》になっています。同じく縄文後期の土偶は、たいへんにすぐれた《原芸術》であります。

 ギリシア彫刻で言えば、アルカイック期の彫刻が《原芸術》です。

 という風に、総括的に論じて行く必要がありますね。


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