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アウエルバッハ/Tauba Auerbach1 [今日の《原-芸術》の可能性を求めて]


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 ティエリー ド・デューヴの『芸術の名において』という本の議論は、あまり私の好きなものではありません。しかしこの『芸術の名において』という書名は、今日のアート状況を良く指し示しています。

長谷川祐子という キュレーターが主張するように、今日ではデザインとアートの遺伝子が交換されたのですから、『デザインの名』において美術市場を成立させればよいのですが、そうはならずに、『芸術の名において』美術館で作品を展示し、美術市場で売買するのです。

つまり今日では《芸術》の名においてデザインでしかない作品を芸術として鑑賞する。そしてまた《芸術》の名において工芸しかない作品を芸術として鑑賞して感動するのです。《芸術》という名においてイラストでしかないものを見て喜ぶ、こういうことになっているのです。
『芸術の名において』であろうとも、しかし本質がデザインであるものはデザイン作品ですし、本質が工芸のものは工芸なのです。そしていくら美術館で回顧展が開かれても、本質がイラストのものはイラストなのです。つまり本質がデザイン、工芸、イラストの作品は、偽(にせ)の芸術なのです。

私自身は、芸術や美術館のこうした玉石混合の状態を事実として認めるし、それで良いとは思って言います。しかしこうした「偽(にせ)の芸術」よりは、本物の芸術の方が好きなのです。

人それぞれなので、偽物の方が好きな人がいても良いとは思います。しかし私は本物の芸術の方がすきなのです。だが、しかし情報化社会になって、複雑さは増してきています。つまり従来の芸術概念で、ヨーロッパの大コンサートホールで開かれるフルーケストラのベートーベンの様な音楽だけが芸術であるという時代は終わったのであって、それこそ,奴隷階級だったアメリカの黒人のブルースの中から、真性の芸術が出現した事を私は認めて、芸術概念の組み替えを認める必要があるのです。

さて、論証をして行くとながくなるので、はしょって結論だけを言うと、現在の彦坂尚嘉は《言語判定法》という方法で、《原-芸術》という言葉と対応する作品を追いかけています。そこに芸術を見いだすのです。

以前は《超次元》や、その倒錯した領域である《第41次元》を追いかけてきていましたが、問題が実は拡大してきているの、判断の基準をずらして刷新してきているのです。ブログの中でも繰り返し指摘しているように、《第1次元》を欠いた《超次元》だけのものは、いくら超一流であっても、人々が愛さないのです。そしてまた、これはあまり書いていませんが、《第41次元〜50次元》だけの作品は、この領域が《超次元》の倒錯領域なのであるせいか、つまりは超次元だけと同じ構造であって、問題があるのです。ここでも愛を欠いたつまらなさが見えるのです。

たくさんの作品を芸術分析してくる中で、従来と私が少し変わってきているのは、一つは200次元までを発見してきていて、超次元〜200次元まである表現を魅力のあるすごい作品であると考える所まで、到達している事です。
もうひとつは《6次元》を排除する態度を緩めている事です。《6次元》であっても、《原-芸術》のある作家を評価しようという態度になってきています。

さてそこで、ここ数回、検討してみたいのはアウエルバッハの作品です。アウエルバッハは、多様な作品をつくる、今日のタイプのアーティストで、6次元ではありますが、原-芸術性がある作品を作っています。


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『アートの格付け』

彦坂尚嘉責任による[ アウエルバッハ ]の芸術分析


《想像界》の眼で《第6次元》の
《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン・エンターテイメント
《現実界》の眼で《第6次元》の《真性の芸術》


《現実界》だけに還元された表現。
プラズマの表現。


《きばらし・アート》
《ハイアート》
シニフィエの表現
理性脳の表現

《原始平面》ペンキ絵【B級美術】

《原芸術》《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》《形骸》《炎上》《崩壊》の概念梯子が有る.

《世間体のアート》が無い


《原大衆芸術》《原イラストレーション》《原デザイン》《原シンボル》の概念梯子が無い。

貴族美術
作品空間の意識の大きさが《グローバル》である。
《愛玩》《対話》という鑑賞構造が有る。
情報量が100である。

アウエルバッハは1981年、カリフォルニア州サンフランシスコ 生まれ

サンフランシスコのスタンフォード大学を卒業。

ニューヨーク在住

アウエルバッハ新しいテキストベースの作品をつくっています。意味のシステム調査する挑戦をしながら、ふざけて新たな意味を作成するために文字を組み合わせるタイポグラフィのような作品をつくっているのです。コンセプチュアルアートに見える作品でありながら、彦坂の言語判定法では《きばらしアート》なのです。

作品は、6次元ではありますが、《原-芸術》はあります。この辺が、デザインやイラスト、工芸になってしまう日本の作家とはちがうところです。

アウエルバッハの作品は現実界に還元されたものです。
これはコスースの文字の作品と比較すると、興味深いものです。

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アウエルバッハ            コスース
現実界のみ             象徴界
                  想像界
                  現実界の3界がある。

念のためにコスースの作品分析をしておきます。

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『アートの格付け』

彦坂尚嘉責任による[ コスース ]の芸術分析


《想像界》の眼で
《超次元〜200次元》の
《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《超次元〜200次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《超次元〜200次元》の《真性の芸術》


《想像界》《象徴界》《現実界》《サントーム》の4界のある表現。。
絶対零度/固体/液体/気体/プラズマの4様態のある表現。



《シリアス・アート》
《ハイアート》
シニフィエの表現
理性脳の表現

《透視画面》オプティカルイリュージョン【A
級美術】


《原芸術》《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》《形骸》《炎上》《崩壊》の概念梯子が有る.

《世間体のアート》が無い


《原大衆芸術》《原イラストレーション》《原デザイン》《原シンボル》の概念梯子が無い。

貴族美術
作品空間の意識の大きさが《宇宙》である。
《愛玩》《対話》という鑑賞構造が有る。
情報量が100である。

今回、芸術分析をしてみて、コスースの作品が200次元まであることを知って、あらためておどろきましたが、コスースは良い作家であったのです。






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加藤豪

彦坂様

アウエルバッハとコスースの作品の比較、たいへん興味深く拝読させていただきました。
芸術の名においてデザインや工芸が扱われているのは、やはり根本的におかしいという議論は、私は理解できるのですが、彦坂さんが書かれた、
>長谷川祐子という キュレーターが主張するように、今日ではデザインとアートの遺伝子が交換されたのですから、『デザインの名』において美術市場を成立させればよいのですが、そうはならずに、『芸術の名において』美術館で作品を展示し、美術市場で売買するのです。
という御意見については、彦坂さんとは私はもう一つ別の側面からの問題意識を以前から持っていて、それを述べさせていただきたいと思います。
『芸術の名において』、美術館でデザインや漫画や工芸を展示し、美術市場で売買するという時に、単に玉石混交もいいではないかという結論に至りつくという問題とはまた別に、つまりそれら「展示」と「市場での売買」というそれぞれの場の、本来峻別されるべきものの、実際の現場での精神上の混交ということが、私の実感としてはあります。
上に長谷川祐子氏の名前があがっているので、これを私自身の現場での経験を紹介しながら説明しますと、私が95年の世田谷美術館での『デ・ジェンダリズム』展への出品を要請され、後日説明を聞きに館を訪れた際に、私が開口一番、企画者の長谷川氏から聞いた言葉は、「この展覧会に今回人選された中、あなただけが新人であり、他の作家は、すべてすでに名の知れた作家たちです。私は、新人は全面に出して売り出すというのがポリシーです。ですので、あなたを全体の順路のトップに持ってこようと考えています、いかがでしょう。」というものでした。
この公立美術館の学芸員の言表のありようには私は腹が立ちました。まるで芸能事務所にでも話を聞きにきたような錯覚にもとらわれ、精神的にめまいを感じたほどです。芸術に対する芸術家の倫理を厳しく問うのは彦坂さんですが、私は、同様にキュレーターの倫理というものも、厳しく問われるべきだというのが信念です。公立美術館のキュレーターとは、物体としての芸術の厳しい管理者であり、かつ学究の徒であるというのが私の考えるところの理想です。私は即日美術館に展示を辞退する旨を告げましたが、アシスタント・キュレーターが以降すべてを担当するということで、再度展示に参加することに応じることになった次第です。

このようなモラルハザードは、今日あらゆる場面でありふれた日常茶飯事なのかもしれません。私はおそらく特別に頭が固く、それは産まれた環境にもよるのでしょうが・・。ラカン的に言えば、私の精神構造には象徴界の機能があまりにも強烈に作用しすぎているのかもしれません。これが苦しいところではあります。
(私は、名古屋市在住ですが、親類には愛知県の文化施策にたずさわる官僚等が多くいて、たとえば愛知県美術館が入っている、愛知芸術文化センターの全体の構想・立案をしたのは県庁に勤める私の年長の従兄弟です。愛知県美術館と名古屋市美術館には、実は学芸員同士の親睦会のようなものがあって、それが毎年恒例の両館合同のスキー部という形をとっているようで、私の従兄弟はそのスキー部のリーダーであるそうです。また、私立の方でも、 内村鑑三が教員をしていたこともある、キリスト教系の学校法人・名古屋学院の理事長職を、私の叔父が努めていて、同じく私立の名古屋造形芸術大学の創立の際にもこの叔父は携わっています。また、左翼知識人もおり、評論家の鈴木邦男氏と「左右討論」などもしてる牧野剛は、私のいとこの夫です。)

私の書き込みは長くて,申し訳ありません。
by 加藤豪 (2010-12-29 02:05) 

加藤豪

キュレーターの倫理崩壊(モラルハザードは、用語としてこの場合間違いであったようなので改めます)について、さらに思い出した重要だと思える内容を付記します。

私は、2008年の釜山ビエンナーレに作家として出品・参加しています。インディペンデント・キュレーターの東谷隆司氏が、私を選抜しました。東谷は、私の芸大油絵科の後輩でもあります。工藤哲巳が教壇に立つ科をまたいだ特別講義にもよく自主的に主席し、盛んに質問を投げかけるなど、当時積極的な学生でありました。
彼はキュレーターとしてのキャリアを、世田谷美術館での長谷川祐子氏の部下としてスタートしました。上の文にある、私を再度展示に参加するように説得したのが彼です。私はその時学生以来、偶然彼と再会しました。それ以来、われわれは親しくなりました。

その後二度、私たちは共に仕事をする機会を持ち、一度目が2005年の森美術館における『六本木クロッシング』、二度目が上に書いた2008年の『釜山ビエンナーレ』です。
私が彼の異変に気づいたのは、六本木クロッシングの搬入の直前の頃です。突然連絡がまったく取れなくなったり、担当がころころ変わったりと、ぎりぎりの状況で制作している作家の立場としては、こういうことは迷惑千万ではあるのですが、私はむしろ友人としての、愛の感情の方を優先し、彼の中で何が起っているのだろうか?ということを以来注視することにしました。彼は、その後ほどなくし森美術館を自主退職し、そして、いろいろと他のキュレーターの企画した展覧会や、または評論家などの論説などを酷評した文を公ではない個人メールで送ってくるようになったのです。発言の場は雑誌など、いくらでもあるはずなのに、自己検閲の圧迫が彼を苦しめるのか、その表現形態はメールでの親しい複数の人間への同時送信だけにはとどまらず、ついには自らアーティスト宣言をして、私が言う「キュレーターの倫理崩壊」などというレベルも通り越し、東谷隆司氏は直接的な非合法な行動を自分の表現とするに至ってしまいます。

一つには器物破損。彦坂さんの本文にある、東京都現代美術館での長谷川祐子氏企画『アートとデザインの遺伝子を交配する』展の出品作の一つ(=私は見ていませんが、電話ボックス型の作品だと聞いています)に、一来客者として入館し、携帯したマジックで「SO NICE!」などの落書きを大きくしまくったという事件がありました。この話を私は本人から聞き、こういう東谷の状態をどう扱ったらいいかと知人らにも伝えて相談しましたが、眉をひそめるばかりで明確な返答は誰からもありませんでした。
私の結論は、彦坂さんのこのブログの一連の論考が一つの導きとなっています。作家・堀浩哉さんの、非合法へ向けての訴えとその後の無責任な遁走という、いわば「トホホ」な結末との間の類似性。キュレーター東谷隆司のこのような「バサラ」な自分に酔った行動は、「バサラ」の滑稽な美学化であり、ユーモアですらもない、単なるイメージ化であると私は思います。私は東谷隆司を、上に述べた信念により、キュレーターとしてまったく認めることができないし、仕事を二度としたくないというのも勿論のことです。
また、このような元部下であるキュレーターによる展示作品の意図的な破損という事実を知りながら、それを公にもせず隠蔽している責任の張本人の東京都現代美術館の長谷川祐子氏も、同様にキュレーター失格であると私は思います。東京都は長谷川氏を即刻解雇するべきである、というのが私の意見です。

東谷氏はこの次期、器物破損をテーマに、今度はアーティストを名乗って、村上隆氏主宰の『GEISAI』に作品を出品もしています。渋谷の路上において、見ず知らずの他人のバイクを大破し、何日間か拘留された。その時の、自らの所持品を入れた手錠番号の印刷されたA4版の封筒を透明アクリルで封入したものです。その後、東谷氏はしらを切り通して不起訴に持ち込みましたが、私は事実を把握していますので、いつでも証人に立つ用意があります。これは、ゴシップなどでは決してなく、真性のシリアスな問題です。

これらは、日本美術史上の現在において、現役のキュレーターによってなされた、まぎれもない事実であります。



by 加藤豪 (2010-12-29 06:51) 

加藤豪

東谷隆司氏と、以下のメールを交わしましたので、これを東谷隆司についてふれた上文についての、追記とさせていただきたいと思います。


東谷隆司様

先ほど携帯に伝言を入れました。

昨日、彦坂氏のブログに東谷にふれた文章を書きましたが、その中の、2007年渋谷区路上の東谷によるバイク損壊事件→『GEISAI』における作品発表の件については、友人として以下の助言を東谷に直接したいと思います。そして、これは作家・東谷隆司による作品発表という公的なことがらに関することなので、この東谷に送るメールを、上述の彦坂氏のブログに書いた文章に追記として加えておきたいとも思います。

渋谷区における事件そのものについて、今僕も渋谷警察署に問い合わせをして確認しましたが、嫌疑不十分ということで処理されているそうですね。
これについての僕からアドバイスとしては、一番いいのは、連絡先をお互いに交わした記録が今手許にあるなら、被害者の方に直接連絡をとって、件の物品の修理代だけでもとりあえず支払った方がいいと思います。もし、連絡先が分からない場合は、渋谷警察署に問い合わせても、おそらく電話では本人確認ができないので、直接出向くのがいいと思います。それでも簡単には伝えてくれない可能性はあるので(少なくとも手続きに時間はかかるでしょう)、その場合は、東谷が弁護士を雇って代理人をたてれば、警察,あるいは検察をとおして手続きはおそらくとおりやすく、被害者の方に東谷の謝罪の気持ちを伝えることと、物品の弁償をすることは、わりと短時間でできるのではないかと思います。
あるいは、友人として、僕自身が東谷の代理人になることも可能です。ご検討下さい。

平成22年12月30日(木)      加藤豪
by 加藤豪 (2010-12-30 14:52) 

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