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芸術分析の食い違いの問題と、糸崎写真の虚偽性について(改題2大幅加筆1) [アート論]

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狩野恵輔さんから、前の門井幸子さんの作品との食い違いのご指摘を受けた。前の分析を確認しないで書いたのだが、しかし今回門井さんの作品をもう一度分析をしなければ気が済まなかったもやもやとした納得のいかなさがあったのだが、芸術分析の食い違いは、それは符号する。門井幸子さんは変化したのではないのか? とにかく、まず、コメントを読んでみてください。


コメント 2

以前、彦坂さん自身が分析した門井幸子さんの批評と食い違っていますが。
http://hikosaka.blog.so-net.ne.jp/index/283

前回否定的なコメントを書きましたが、基本的に僕は彦坂さんの批評を肯定的に読んで来ました。第一回のブログから今日まで絶えず読み続けています。というのも、僕の判断と彦坂さんの批評が概ね一致するからです。僕の感じる良いという部分を言葉に変換してくれる彦坂さんの批評は僕の頭の整理に非常に役立ってきました。わずかにずれる部分はむしろ僕に向かって疑いを投げかけ、修正していたほどです。
ところが、糸崎さんの写真から僕の中で疑問が生まれています。僕の眼からすると、糸崎さんの写真は良くないのです。本人が発言しているのを受けているという事実は否定しませんが、しかし、それを除いても僕には単なる”なぞらえ”にしか見えないのです。彼の写真の奥にある、隠し難い素人臭さが目につくのです。単に形だけを真似していることが写真に表れています。形さえ真似すれば良いのだろうという小さながら開き直りのような、あるいは自分自身は作品とは無関係に存在し、セオリーどおりに作ることを密かに笑っているような、そうした軽薄さが作品に出ているのです。僕にはむしろ彼の写真は形骸化しているように見えます。そのことが彦坂さんには見えないのだろうか、または見えた上でそれでも彼の作品を評価するのか、そのあたりを聞かせていただけたらと思います。 
by 狩野恵輔 (2010-12-20 10:29)  



狩野恵輔様

食い違いのご指摘ありがとうございます。
そちらは自分でも興味深いので、ブログに一本たてて取り上げてみます。

糸崎さんのことは、そこで答えられるかどうかは、今わかりませんが、
考えてみます。 
by ヒコ (2010-12-20 11:20)  

芸術分析の食い違いの問題


彦坂尚嘉の芸術分析の基盤にあるのは、ヤーコブ・ローゼンバーグの芸術の質の比較分析の研究です。これを読んでから20年以上、いろいろと分析をやってきています。立教大学大学院の授業でも今期、1度だけですがヤーコブ・ローゼンバーグの本にある2つの画像を見せて、学生に判断を出させました。

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レンブラント2.jpg

この2枚の作品を比較して、どちらが良い作品であるかという比較分析なのです。2枚を並べてみます。

レンブラントの比較.jpg

レンブラントの比較2.jpg

2枚あるのは、左右で見え方が違うので、右左を置き換えたもので2枚作ったのです。この場合、一枚のドローイングがレンブラントの描いたものです。もう一枚が、レンブラントの弟子が模写したドローイングです。

こういう類似したデッサンを、いくつも見せて、どちらがすぐれているのか? という試験をやったのですが、学生たちは、きわめて憂鬱な顔になりました、違いがデリケートなのと、自分があまりにも間違えるからです。

さて、そういう風に、比較はきわめてデリケートです。
答えは、やや汚れの無い大きくい作品の方が、弟子の描いたものです。

レンブラントの比較.jpg

弟子=6次元            レンブラント=超次元


今回の門井幸子さんの作品の場合にも、私が前に書いたブログの写真は、今見ても《超一流》の真性の芸術なのです。

そして今回の、門井さんのホームページから撮ってきた写真画像は、《6次元》のデザインエンターテイメントなのです。

まず、昔のブログで超一流と分析している写真です。この段階では、本の出版はされていません。


門井幸子超一流.jpg
超次元の作品



下は、今回の私の新しい芸術分析につかった写真です。門井幸子さんの本の出版後のホームページから取ってきたものです。


門井幸子6流.jpg
6次元の作品

これを2枚並べてみます。

門井幸子比較2.jpg

超次元             6次元


写真の下部の自動車のタイヤの後にたまった水の部分を比較すると、6次元の写真の方が、やや濃くて、くっきりと目立つようになっています。逆行の山の部分も、言葉で言うのはむずかしいですが差異があります。同じネガの写真ですが、紙焼きが違うものである可能性があると私の主観では推量します。事実は知りませんので、それ以上の判断は言語判定法の範囲を超えてしまいます。

言語判定法だけで真実や事実が分かるものではありません。人間の判断には、イメージ判定法、現実判定法(科学的判定法)、そして言語判定法という3つが必要なのです。正確に事実をとらえるのには、3つをすべて使ってみる必要があります。

しかしそうすると、調査にはかなりの時間と手間がかかります。私が提出しているのは、彦坂尚嘉の主観が判断する言語判定法による判断だけです。これはあくまでも彦坂尚嘉という個人の主観が示す判断であって、それ以上のものではありません。

念の為に左右を入れ替えてみます。

門井幸子比較2.jpg

6次元                超次元

こういう微細な差異を、想像界の眼で見分ける事は、ほぼ出来ないはずです。10人中8人の人は,想像界だけの人格で、想像界だけの目で外部を見ています。想像界の人の目は、かなり鈍いものなのです。

人間精神の象徴界を使った言語判定法は、きわめて微細な差異を識別します。

門井幸子さんは、写真集の出版は2008年11月28日の日付になっています。私が見たマキイマサルファインアーツのグループ展『Layered Landscape』は、2008年6月-7月になっています。ですから普通に考えれば、この数ヶ月間の短時間に超一流の写真が6次元に落ちるはずはないと考えられるものです。しかし実際には、精神の変化は短時間に起きるものです。

もっとも、現在のホームページにアップされている写真と、本の写真と、マキイマサルファインアーツに展示された写真で、焼きが変わっていないのか? が、事実としては分かりません。

あるいは、単にブラウン管に見えるネット上で起きる差異なのか? いろいろの理由は考えられます。

現在の時点で、私の立場でいえることは、私の2つのブログで掲載されている2枚の写真は、現在でも超次元に見えるものと、6次元に見えるものの、2種類がある、という事です。

それを、私自身の門井幸子さんに会って話したり個展を見たりしている実感ですと、最初に会った時点と、本を出版してからとは、違ったという印象です。人間が変わったのです。本を出して、反響があったことで、彼女は変わったのではないか? そして写真も変わったのではないか? それが私の中で不可解な謎を生んで、芸術分析を繰り返していかなければならない違和感を生んだように私には思えます。

作家が変貌する例は、いくつもあります。
作家は変わるものなのです。

さて、以上が、門井幸子さんの作品に関する芸術分析の食い違いの問題で、今、私の書けることです。

糸崎写真の虚偽性について


もう一つの糸崎さんの作品に対する疑問ですが、疑問をもたれる事自体は、当然であると思います。

プリンスなどのシュミレーショニストの場合でも、必ずしも本人が作品を理解していなくて、後半崩れてきています。

糸崎公朗さん自身は、大衆芸術の作家であって、今、ご自分で制作した
「反ー反写真」シリーズは、あくまでも方法論と技術で制作しているものです。本人自身が、作品の良さを実感し、理解しているものではありません。

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糸崎さんの写真を疑う事はできるし、むしろ当然のことであると言えます。

しかし、私は逆に、今の糸崎さんの状態こそが、普遍的に作家の制作に現れている事のように思えるのです。つまり自分の実感の外で、方法論と技術で制作する事が、芸術制作であると思えるのです。そのように考えないと、ゴッホの場合にも、6年間くらいで8次元の凡庸な田舎作家が、急速に成長変貌して、超次元の作品を作り出すようになったのか? さらにゴーギャンのとの離別後の狂気と、それによる作品の水準の大崩壊が起きたのかが説明出来ません。

制作という技術と方法の問題としても、糸崎さんの作品は興味深いものなのです。

さて、ご指摘の、「単なる”なぞらえ”にしか見えない」部分はあります。しかしこの”なぞらえ”というのは、セザンヌの絵画にもあります。セザンヌの作品というのは、実はピサロをなぞって変貌して、できるのです。ピサロとセザンヌの関係を詳細に追った美術展は、ピサロの孫がキュレターで組織しています。

糸崎さんの「写真の奥にある、隠し難い素人臭さ」というのも、セザンヌの絵画にも、マティスの絵画にも、クレーの作品にもが目につくのです。だから、狩野恵輔さんのその判断は逆ではないのでしょうか。

単に形だけを真似していることが写真に表れています」というご判断も正しいとは思いますが、この評価も逆で、単に形だけを真似する事がすぐれた芸術の本質ではないでしょうか。それはセザンヌでも、ゴッホでも、その急速な学習と変貌を丁寧に見ていくと見えるものです。

ピカソのキュビズムの時期の9年間のレゾネが出版されていますが、それを見ていても、単に形だけを真似している」ことが生み出す創造性のすごさと、面白さ、そして空虚さが見えるものです。

形さえ真似すれば良いのだろうという小さながら開き直りのような、あるいは自分自身は作品とは無関係に存在し、セオリーどおりに作ることを密かに笑っているような、そうした軽薄さが作品に出ているのです」というご指摘も、同感です。が、しかし、そうではないものも出ています。街歩きの写真がもっている糸崎さんの空間把握の大きさや、微細なものをとらえる繊細さは傑出したものであって、その糸崎公朗表現の真実と、シュミレーショニズムの文化的な模倣性の形骸性が、2重映しになっていると、私には見えます。

僕にはむしろ彼の写真は形骸化しているように見えます」というご指摘も、同感です。特に、このような風景写真の形式は、芸術写真の何重にも繰り返されてきた模倣の連鎖が生み出している、風化し形骸化したものなのです。その形骸化を意識的になぞることで出現する糸崎写真の真実が、面白いのです。タランティーノの映画『キル・ビル』に見られるような虚実紙一重の世界の面白さなのです。形骸化した芸術風風景写真の虚偽の中に、糸崎さんの真実が、きらきらと、写真の隙間から見えるのです。

こうした面白さも、3年以内に、本質的な形骸化に見舞われます。ですから2年くらいで、写真集にまとめられないかと思います。がんばって欲しいものです。






タグ:門井幸子
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狩野恵輔

丁寧なお返事ありがとうございました。

僕は絵画は専門ではありませんが、レンブラントと弟子のドローイングに関してはどちらが良いのか見分けはつきました。右に立っている人間と、真ん中で倒れている人間の足が二つの絵でははっきり違うのでそこで気づきました。良い絵の側は肉厚まで書かれていますが、悪い絵は単なる線に近い。そうして視野を広げて見ていくと人間がきちんと骨から描かれているのがレンブラントの側は見てとれます。人間が内部から統率されて描かれているといった感じでしょうか。悪い絵の方は身体のそれぞれの部位が遊離しているように感じます。気付くと全体から明らかに良し悪しがわかりますが、確かにいきなり出されると悩みかねません。
ですが、門井幸子さんの写真に関しては正直に言って全くわかりませんでした。写真を入れ替えているのさえ見分けがつかないほどでした。
糸崎さんの写真に関する答えについてですが、ある程度予想していた答えと符号しました。セザンヌ、マティス、クレーを見直してみます。自分で批判しておきながら言うのですが、糸崎さんの写真が単なる形だけの真似であるにしても、それだけではない良さがあることも理解はしていたつもりです。作品そのものも前よりもずっと良くなったとも感じていました。ですが、僕の中にある芸術に対する憧れのようなものがそうした事実を拒否したがったのです。芸術とはこんなものだろうか?と悩んだのです。
と同時に、自分の中で冷めた想いもあったのです。いつでも憧れが事実を認めることを邪魔するということを知っているので、今回もそれではないかと疑ったのです。つまり、芸術に対する憧れを強く持ちすぎるあまり、実は単なる形だけの模倣こそが重要であるという事実を、認められないでいるだけではないか、という疑いです。この二つの間で揺れていました。質問してみて良かったと思います。
回答して頂きありがとうございました。作品をもう少し見ながら、自分の中で答えを出したいと思います。
by 狩野恵輔 (2010-12-20 17:00) 

ヒコ

狩野恵輔様
コメントありがとうございます。
お返事遅れてすみません。

まず、レンブラントです。ご指摘、非常に良い、正しい見方です。

「良い絵の側は肉厚まで書かれていますが、悪い絵は単なる線に近い。そうして視野を広げて見ていくと人間がきちんと骨から描かれているのがレンブラントの側は見てとれます。人間が内部から統率されて描かれているといった感じでしょうか。悪い絵の方は身体のそれぞれの部位が遊離しているように感じます。気付くと全体から明らかに良し悪しがわかります」

そのとおりです。表面でものを見るか、表面を通してその内部を見るかの違いなのです。

レンブラントのドローイングは、レンブラントと弟子という2人の違いがありますが、門井さんの写真は、まず、1人の人間の意識の変化の問題です。
人間は社会に出る直前には、社会にこびるという意識抜きで作品を作っているので、超一流ものを作ります。ところが社会に入って、認められるという事がリアルになると、その表現を作る意識が変わるのです。
日本の敗戦後の社会は、文化が岡本太郎に代表されるように原始的なものに退化して野蛮人化しているので、6次元自然領域や、その倒錯形態の8次元になっています。そういう状態に、作家の意識が同調するようになるのですが、写真のイメージで見ると、ほとんど見分けがつかない変化などですが、それが起きるのです。

問題は、超次元が6次元に変化しても、作家本人もそれを自覚出来ない事です。しかし作品展開して行くと次第に明らかになりますし、6次元の作家は、作品が成長しないので、晩年になるとなおさらはっきりとしてきます。
by ヒコ (2010-12-22 12:40) 

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