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糸崎公朗「反ー反写真」個展♯1/第88回気体分子オークション(改題) [気体分子ギャラリー]

糸崎公朗「反ー反写真」個展♯1

第88
回気体分子ギャラリー・オークション
【締め切り12/20(月)】

  • 途中からで恐縮ですが、題名を変えました。オークションを作家の個展としてまとめて表示する事を、この糸崎さんの作品の提示の途中から考えつきました。という訳で、個展形式とシリーズ形式も交えて、このオークションを進めていこうと思います。こうするともっと多くの作家にも参加してもらえると思うのです。だからといって、何でもありという形は取りたくありません。あくまでも、気体分子ギャラリーのポリシーを形成し、まもって行きたいと思います。その条件は、このブログの当初は《41次元》性であり《
    超一流性
    》であったのですが、そのこだわりは変わりませんが、芸術分析も進化してきていて、今の時点で、一番重視するのは《原-芸術
    》性です。これについては、機会を見つけてブログで論を展開したいと思っています。

糸崎公朗さんの登場です。
最近の「反《反写真》」というものを、私は芸術写真として評価しています。

糸崎さんの街歩きの視点が持つ空間の大きさ、それは《宇宙》性を持っていて、気持ちがよいものです。下の写真では、一番奥の山の先までの空間が、さらにその向こう側にまで延長性を持っています。まるでプーサンの絵画のようです。この空間の大きさや深さは、意識の深さであって、糸崎さんの才能が示しているものであって、なかなか他人に真似できるものでは有りません。


糸崎1.jpg
糸崎公朗 「反ー反写真」♯1
101214_01




この作品は《原ー芸術》性を持っているのです。さらには《超一流》性も獲得してきています。その上、鑑賞構造性も持ってきていて、《対話》《信仰》の2つがあります。

『アートの格付け』

彦坂尚嘉責任による[糸崎公朗の「反ー反写真」♯1]の芸術分析


《想像界》の眼で《超次元〜第150次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《超次元〜第150次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《超次元〜第150次元》の《真性の芸術》



《想像界》《象徴界》《現実界》《サントーム》の4界をもつ重層的な表現。
プラズマ/気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現。



《シリアス・アート》である。ただし《気晴らしアート》性が無い。
《ハイアート》である。ただし《ローアート》性が無い。
シニフィアンの表現である。ただしシニフィエ性が無い。
理性脳の表現である。ただしと原始脳性が無い。

《透視画面》 オプティカル・イリュージョン【A級美術】。ただし【B級美術】性が無い。


《原芸術》《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》《形骸》《炎上》《崩壊》の全概念梯子が有る。

《原大衆芸術》《原イラストレーション》《原デザイン》《原シンボル》の概念梯子が無い。

貴族の芸術である。ただし大衆美術性が無い。

作品空間の意識の大きさが《宇宙》である。
《対話》《信仰》という鑑賞構造2つが有る。しかし《愛玩》《驚愕》《瞑想》は無い。
情報量が100である。



糸崎さんのフォトモに代表される作品は、《大衆芸術》性によっているものでしたが、この「反《反写真》では《高尚な芸術》性による作品になっているのです。

1人の作家に、こうした変化が起きる事は、きわめて珍しいのです。(中川晋介さんにも、こうした成長はあります。

こうした変化を示す作家は、珍しいのです。過去の例では、雪舟の成長による変貌、さらにゴッホの変貌や、北脇昇の成長が知られているだけです。芸術というのは、天性の才能ではなくて、学習によるものである事をこれらの実例では示しています。

この変貌や成長への学習のエネルギーそのものは、糸崎さん自身が持っているものです。自発性の高さが、こうした芸術の高みへの達成を獲得したのです。

こうした自発的な欲望を持つ作家は、私は今まで出会った事がありませんでした。最近は栃原さんや中川さんも含めて出会ってはきていますが、それまでは空振りの連続であったのです。

私の出会ってきた人々の多くが、自分自身を守ることに汲々としていて、成長への意欲を持っていなかったのです。これらの人々はあきれるほどに学習能力が無く、保身とナルシズムに固まっていました。その意味で、多くの人間は、人間が持つ成長の力を使う事無く、低いままで昆虫のように生きて死ぬものなのです。

今村昌平の『日本昆虫記』という1963年の映画は、そういう日本人を描いていましたが、ナルシズムの中で自足して終わる昆虫人間の凡庸さが、日本の基準的な生き方だと言えます。

その中で、糸崎さんは、めずらしい成長を示しているのです。栃原さんや中川さんとの違いは、すでに糸崎さん自身はフォトモと言う作品で知名度も評価も獲得しているからで、単なる無名の新人ではないからです。約10年の活動の後に、更なる展開と成長を達成しようと果敢な努力をなさる糸崎さんの意欲は、なみなみならない人格力が生み出すものなのです。それは死刑囚・永山則夫を思い出させるものがあります。『無知の涙』という永山の著作が示しているように、学習によって人間は覚醒していくのです。つまり糸崎さんが示しているのは、日本の中には、芸術について学ぶチャンスが少ないのです。あるいは芸術を教える教師がいなくなっているのです。

自殺した江藤淳が指摘していたように、敗戦後の日本は、アメリカの検閲による文化崩壊が起きて、虚偽の文化空間を生きてきているのです。それは同時に芸術の喪失でもあったのです。1953年の岡本太郎の変貌以来、日本芸術は、虚偽の美術の中に沈んだのです。岡本太郎の呪縛にとらわれた岡本チルドレン。糸崎さんもその1人でありました。しかし覚醒したのです。

しかし、疑う事もできます。糸崎さんのこうした変化も、付け焼き刃に過ぎなくて、すぐに落ちるのではないのか?
その可能性はおおいにあります。
私が関わってきた何人もの作家は、実は過ぐに8次元に転落していったのです。芸術というのは、むずかしいものなのです。私自身にも関わる問題ですが、芸術のこうしたむずかしさを追求する道を歩む事は、ある意味で宗教の修行に似ているものと言えます。日本人は、古来、それを「道」と呼んできました。

写真家の土門拳には、そうした偉大さがありました。雪舟や、雪村という画家にも、同じような偉大さがあって、多くの人を引きつけます。日本人にとっては、やはり「道」としてたち現れるものなのかもしれません。

こうした伝統の匂いもまた、虚偽に思えますが。





タグ:糸崎公朗
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糸崎

詳細な評論ありがとうございます。
これについて、自分のブログにも記事を書きました。
まだ書ききれないでいるのですが、とりあえず・・・
http://itozaki.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/post-54de.html
by 糸崎 (2010-12-16 13:32) 

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