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『アートの格付け』とPhotoshop/Lesson1 [アート論]

このところ重大な発見をしていて、ブログの更新が出来ませんでした。本人は学問をしているつもりなので、現代美術/アートの制作が、普通の意味での社会的な芸術活動と違うところがあります。その辺が社会的には誤解されるのだとは思います。つまり行き詰まっているとか、あるいは自身が無いとか、終わったとか、そのように見られます。
 
《第6次元 自然領域》の作家の場合、作品が安定していて、たいへんに多くの作品をつくりますし、社会的な成功を率直に追いかけているので、そういう作家との差は大きくなります。私の場合には、根底に何があるのかについて疑いは自分自身にもありますが、芸術そのものの構造の探究と作品制作が重なってしまっている作家なのです。

しかも今回の問題の発見は《第6次元 自然領域》の作品が、実は多様であることに気がついて、その分析は、妹島和世さん、奈良美智さんからはじまって、最後は村上春樹の小説分析に至り着いきました。そして結論としては、グローバリゼーション下、日本現代アートの可能性が、《第6次元 自然領域》と《第51〜100次元》の組み合わせにあることを明らかにするところに至ったのです。しかも《第100次元》というのはサントームの領域である事も発見しました。

このサントームというのは、むずかしいので、別の機会に丁寧に語らないと、ほとんどの人には分からないと思います。ジャックラカンが晩年に至り着いたもので、それを大幅に彦坂尚嘉的な転回で言うと、情報化社会のアーキテクチャーを成立させるリテラシーを成立させるディメンションなのです。この情報化社会の建築の要諦であるサントームが、妹島和世の建築にはあるし、さらには苦労して読解し取っ組んだ結果として村上春樹の小説にはあると結論づけたのです。

しかし読者には、建築や文学と、美術を一緒に分析して行く彦坂尚嘉のやり方はいかがわしく、見えるでしょう。グリンバーグ的に言えば、建築は建築であり、文学は文学であって、美術とは違うジャンルであり、そこには固有の領域があって、相互には一切の関係がないはずだからです。
 
彦坂尚嘉の『アートの格付け』というのは、グリンバーグ以後の問題設定であって、このようなジャンルによる差異の外部に出ているのです。つまりおのおののジャンルが分離していても、それを鑑賞する人間は彦坂尚嘉という一人の人間なので、その各ジャンルの差異を超えて、比較し共通する趣味判断をしえると考えるのです。

趣味判断は18世紀の貴族の味覚判断からはじまったので、つまり味覚について鈍い人は、美術作品の判断も鈍いのです。一緒に食事に何回かいっていると、その人の味覚の水準が推察できるようになるものです。その味覚のセンスと美術の善し悪しを見分けるセンスは連動しているのです。そういう意味では映画の善し悪しを判断するセンスも、味覚と連動しています。大衆的な食堂や飲み屋は、《第8次元 信仰領域》が多くありますが、《第8次元 信仰領域》の食べ物を好む人は、映画作品も《第8次元 信仰領域》のものや、その対になる《第6次元 自然領域》の映画作品が好きなのです。
 
文学の趣味にもこのような関係は連動していて、《第6次元 自然領域》の文学が好きな人は、《第6次元 自然領域》の美術作品が好きであって、《第1次元 社会的理性領域》の作品は威圧的だと言って嫌ったり、《超次元》の作品はキチガイとして排除したりする傾向があるのです。

つまり趣味判断というのは、その人の人格と密接に結びついています。一人の人間の人格は極めて複雑なので、したがって芸術の趣味判断も複雑に現れるのですが、一人の人間の趣味判断は、音楽や美術、建築、文学等々に連動しているものなのです。連動はしていますが、それは必ずしも同一の次元ではありません。たとえば建築家で、《超次元》の建築をつくっている優秀な人が、絵画の鑑賞になると急に次元が落ちて《第6次元 自然領域》の作品を激賞するという事が起きます。つまり人格そのものが、建築家という職業でのスペシャリズムと、絵画を鑑賞する時のアマチュアリズムが混在しているのです。具体例を挙げればコルビジェの建築は《超次元》ですが、その描く絵画は《第6次元 自然領域》なのです。

人間は神ではないので、すべての事に秀でているというものではないのです。私自身もそうであって、絵画を中心にする美術はプロフェッショナルのつもりですが、建築や詩についてはアマチュアに過ぎないのです。こうした一人の人格の不均衡さと、芸術の趣味判断は成立しているのです。ですから、趣味判断という領域の学問化を目指す彦坂尚嘉の視点からは、各ジャンルの差異を超えて芸術分析はなし得ると考えるのですが、そこには色濃く、彦坂尚嘉という人格のゆがみや不均衡さ、未熟性もまた反映されているのです。そういう不完全さは、グリンバーグをはじめとして、多くの批評家にも言える事であって、日本の美術批評もまた、こうした人格を反映して展開されて来ているのです。私自身は、学問を目指すとともに、学問にはそのような私性が反映している事を認めるのです。
 
ジャンルは完全には分離できないと言うことは制作理論的にも検討すべきものがあって、例えばミニマリズムは、美術にもありますが、音楽にもあって、そして文学にも、建築にも見られるものなのです。同様なことは、印象主義にも言えて、印象主義は、絵画にも、彫刻にも、そして音楽にもあります。 さらに文学にもみられたのです。この多ジャンルにわたって現れるミニマリズムや印象主義を見て行く事によって、私たちはミニマリズムや印象主義の広がりを介して、問題の本質に肉薄して行く事ができるのです。
 
というわけで、今回の《第6次元 自然領域》の再探索が、彦坂にとっては建築も、文学も、美術も共通して問題にしうる問題であったのです。回りクッドイ前書きになりましたが、そういう背景で、彦坂尚嘉の『アートの格付け』を、Photoshopでの画像操作を比喩として、示して行きたいと思うのですが、かなりの分量と複雑さであり、何よりも彦坂尚嘉自身がこのことを探究している最中なので、その不完全さを露呈させながら、正直に考えている事を示して行きたいと思います。しかしそのPhotoshop画像の差異は極めて微細なものです。これを1枚1枚比較しながら判断できる人は少ないともいます。多くの人の感性は粗雑であって、微細な変化を見分ける事が出来ないのです。感性を訓練して行くと、微細な差を判断できるようになります。繊細さというものが才能の有無なのです。微細な差異を見分ける能力こそ才能の一つのバロメーターなのです。このことはレオナルド・ダ・ヴィンチが示しています。レオナルド・ダ・ヴィンチは、アンドレア・デル・ヴェロッキオの工房に弟子入りし、先生のヴェロッキオと分業で絵画『キリストの洗礼』を描いていますが、レオナルドの描いた天使は繊細を極め、師匠ヴェロッキオを驚愕させ、以後ヴェロッキオは一切筆をもたなくなったと言われています。この絵を見ると、人間の繊細な感性こそが才能であることが分かります。

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アンドレア・デル・ヴェロッキオ

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レオナルド・ダ・ヴィンチ
 
さてそういうわけで、この『アートの格付け』とPhotoshopというレクチャーは、微細な差異を見分ける訓練でもあります。内容は煩雑ですので、7レスンに分けて、少しずつやります。まずは、第1回目です。私自身はたぶんに精神分裂症なので、この7回が最後まで出来るかどうかは不安ではあります。たぶん途中で転けるのではないか?と不安であります。ですので、自戒して、とにかく、不十分でも7回をやり通したいと思います。応援して下さい。

Lesson1 自然領域と文明領域

《第6次元 自然領域》.jpg
《第6次元 自然領域》
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《第1次元 社会的理性領域》 .jpg
《第1次元 社会的理性領域》
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第1次元と第6次元  .jpg
《第6次元 自然領域》         《第1次元 社会的理性領域》

(この項つづく)




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