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2010-09-20

 長谷川仁の〈日動画廊〉
 
日動画廊
 

東京都中央区銀座西五の一日動画廊主長谷川仁
氏。これが有名な日動画廊である。入口におかしな
石像が立っている。入って突当りが常設陳列室、そ
の奥が応接室、入って左側に一間半四角程の小さな
個展会場、その奥にやはり陳列室。ところでこの画
廊「沢山ある」「何んでもある」この沢山何でもあ
るということがこの画廊の特色なのである。壁一杯
床にまでスケッチ板から百号位までビッシリつまっ
ている。梅原、安井の巨匠から日展作家、在野作家、
さては前衛作家の作品までたいていの絵がある。大
ていの絵は買える。貴方は応接室をお持ちだろう
か、壁の色は、そしてどんな絵がお好き、よろしい
この絵にしなさい長谷川仁氏は親切に教えてくれる
であろう(船戸洪「画商巡礼」『美術手帖』昭和二四年二月号)。


 〈流れ〉にさからったおぼえはない
113 奇人・西田半峰の敗北第II章 歴史批評112
 長谷川仁、画商。
 昭和五一(一九七六)年一〇月二七日午前一時四五分、
心不全のため東京代々木中
央鉄道病院で死去した。
 享年七九歳であった。
 長年の美術界、美術市場
における功績によって、昭
和四二(一九六七)年藍綬
褒章を受け、翌四三(一九六
八)年笠間市名誉市民とな
り、昭和五一(一九七六)年にはフランス政府よりコマ
ンドール勲章を贈られた。
 著書に『洋画商』(発行・日動画廊、発売・美術出版社、
昭和三九年)と『へそ人生』(読売新聞社刊、昭和四九年)
の二冊がある。
 長谷川仁は、成功した洋画商であった。なぜ大成でき
たのか?
 長谷川仁は、明治三〇(一八九七)年一〇月九日、東
京市牛込区山伏町に生まれた。
 少なくともこのように、長谷川仁の二冊の自伝や『美
術年鑑一九七七』(美術研究所編)など多くの資料に記
載されている。しかしぼくが見つけた唯一の例外は、匠
秀夫が、朝日新聞社編『現代人物事典』(昭和五二年刊)
の中の「長谷川仁 はせがわ・じん」の項目で「茨城県
笠間市に生まれる」と書いていることである。ここが父
親の出身地であること以外にどのような根拠によるもの
なのか興味深いけれども……
 自伝によると長谷川仁には生まれた家の記憶はなかっ
たという。父親の長谷川裕は、茨城県の笠間出身の耶や 蘇そ
教の牧師で(キリスト教とは言わず、あえて古語の耶蘇
教と使いたい。その理由はあとで説明するので、耳ざわ
りな点はお許し願いたい)、教会本部の命令で転勤を繰
り返したため、仁の少年期の記憶は、福島市、仙台市、
水戸市そして郷里の笠間などであった。そしてこの父の
転勤から受けた流動感覚は、仁の生涯を貫く運動感覚と
なっている。
 長谷川仁はその第一著書『洋画商』の中で次のように
語っている。(なお、この本は、この手の本としては珍
しくもゴースト・ライターの名を明示していて、美術記
者の上島長健が〈あとがき〉まで書いている、長谷川仁
らしい素直でのびやかな自費出版本となっていて、上島
長健のハリのある文体を含めてぼくは好きだ。)
 絵は時の間に間に流れて納まるところに納まる─
私自身のいままでをふりかえると、絵ではないけれ
ど流れることに身をまかせた末に己れの場所を得
た、という思いがする。もちろん、人間のことだから、
そのときそのときの苦労もあり、努力もしたが、〝流
れ〟にさからったというおぼえはない。ひとはよく
私のことを、道のないところを切りひらいてきた立
志伝的な人物のようにいうが、私としては、自然に
流れるままにまかせてそうなったまでで、洋画商に
なった動機にしてからが、せっぱつまった境遇と偶
然とに導かれたとしか、いえないのである。
 読者諸氏はこれを読んで生々流転のような東洋的思考
だと思われるかもしれない。本人もまたそう信じている
ふしもある。しかし、例えば次のような明治的感覚と比
較してみてほしい。
 山や まみち路を登りながら、かう考へた。
 智に働けば角か どが立つ。情に棹さ をさせば流される。意
地を通せば窮屈だ。兎と 角か くに人の世は住みにくい。
 住みにくさが高か うじると、安い所へ引き越したくな
る。どこへ越しても住みにくいと悟つた時、詩が生
れて、画が出来る。
 有名すぎる夏目漱石の『草枕』の冒頭と、長谷川仁の
「〝流れ〟論」とを比較するのは無茶すぎるかもしれない
が、しかし漱石が「情に棹させば流される」と語るとき
の「流される」ことに対するネガティヴな評価と、長谷
川仁が「……苦労もあり、努力もしたが、〝流れ〟にさ
からったというおぼえはない」と言い切るときの〈流れ〉
という言葉に対する肯定性の高さは、極めて対照的だと
32 日動画廊正面入口、33 日動画廊の内部
115 奇人・西田半峰の敗北第II章 歴史批評114
思うのだが、どうであろうか。この対照性は、芸術家の
漱石にとって詩や画が到達点であるのに対して、画商で
ある長谷川仁にとって「絵は時の間に間に流れて」ゆく
ものであるからだろうか?
 それはまた引っ越すことに対する対比でもある。漱石
が「住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくな
る」と言う時、「引き越し」は逃亡であるにしろ能動的
な選択である。それに対して、幼い長谷川仁にとって、
繰り返される引っ越しは、自らの意志決定ではなく、た
だただ神の御心のままに受動的に受容するべきもので
あった。だから、東洋的な生々流転の諦念として見る
と、長谷川仁は、大悟している人物のように見える。
 だが、東洋的諦めにしては、ふっきれすぎているのだ。
 横山大観の「生々流転」は、ぼくの大好きな絵だっ
た。
 この絵が出品された第一〇回院展は、オープニングの
招待日に関東大震災となって中止になり、大阪商品陳列
館で一一月に展示されている。
 この関東大震災をくぐり技けた人々は、あるニヒリズ
ムを持ち、このニヒリズムの影は、西田半峰、石原龍一
や鈴木里一郎ら、直接に関東大震災直後から画商活動に
入った人たちには、なんとなく感じられる。
 今井貞吉は、西田半峰の画商への転換を、関東大震災
によるニヒリズムと捉えて次のように書いていた。
 ……繁栄した大都会は大地の身振いで廃墟と化し
た。人間の為事など蟻の築く塔みたいなものであ
る。空しい、全く空しい。だが厄介な事に人間は社
会を築いている。その中で生きなければならない。
その為には何かしなければならない。半峰は絵画を
活かして画商になろうと決心した。
 今井貞吉のようなロマンティックな見方をぼくは室内
社について書くとき採らなかったけれども、この関東大
震災から昭和五、六年にかけては、ニヒリズムが、ひと
つの時代精神として突出してくるのである。
 しかしニヒリズム以上に虚無的に明るい長谷川仁の流
水感覚は、もっと構造的で本質的な流動性であるよう
に、ぼくには思える。これは古い価値感や緊密な結びつ
きを解体しながら一方向へと走りつづける〈近代〉とい
う時代の運動感覚である。
 長谷川仁が幼時から少年期に、常に移動しつづけたと
いう流浪感覚、そして移動することに対する一方的とま
で言える受動性─「〝流れ〟にさからったというおぼえ
はない」というこの他力性の高さが、昭和という激流の
時代を的確に把握し、常に流れに身をまかせながら、そ
の適応の中で、自分たちがやれるだけのことを全力を尽
くしきってやるという能動性を発揮することになる。
 この時代のニヒリズムが表層的なモダニズムとして現
れてくるのに対して、長谷川仁のそれは、日本には珍し
く深層的なモダニズムであったように思われるのだが、
どうであろうか。
 長谷川仁は父親っ子だったという。だから父親の長谷
川裕の影響は大きかったと思うが、その父が耶や
蘇そ
教の牧
師であったことは、さらに大きな意味を持っていたこと
だと思う。
 流れに身をまかせるには勇気がいるし、また楽天性が
いる。長谷川仁にそれがあったとすれば、そのひとつは
耶蘇教をくぐったことであると思う。ぼく自身も内村鑑
三に影響を受けて耶蘇教をくぐっているから、彼が持っ
ている流れに身を委ねながら発揮する能動性がよく理解
できる。
 一神教特有の一点への集中性と、始まりがあって最後
の審判があるという一直線的時間構造の明快さである。
 それともうひとつ、この流れに身を委ねることができ
た大きな理由は、長谷川仁が、〈地にまします神=父親〉
を信じることができたゆえのものであろうと思う。
 国鉄福島駅の前に、菅野重蔵さんという足袋屋さ
んがいた。夫婦とも父の教会の信者なので、うちと
もよく往き来していたが、菅野さん夫婦は私をたい
へん可愛がってくれた。用もないのに、私はよくそ
の店に出かけてゆき、チョコンと座っていたものだ。
「仁ちゃん、うちの子にならんかね」 
 二人はしばしばそういった。菅野さん夫婦には、
当時女学校に通っていた市子さんというひとり娘し
かいなかったので、ほんとうに私を養子にしてもい
いという気持だったらしい。それは、父の不賛成で
実現しなかったが……。
 父の裕は一四人もの子供を持っていた。決して生活は
楽ではなかったはずだし、常識的には、他家に子供をや
れば少しでも楽になると思うけれども、仁の父は不賛成
であった。
 ここが西田半峰とは決定的に違うところだ。半峰は貰
われっ子であったのを、思い出してほしい。半峰には、
自らの環境である時代の流れを信じ、身を委ねて、この
流れに軽々と乗って、移動し運動してゆくだけの楽天性
はなかった。その根本には、子供にとっての最初の環境
である両親への強い不信があったからだと思う。この不
信は、彼の妻との関係すらを汚染してしまった。西田半
峰は、詩人の陶山篤太郎の妹と結婚している。この結婚
について半峰は今井貞吉にこう語った。「わしは他にこ
れという失敗はなかったが、結婚だけは失敗だった。酒
飲みというものは仕様のないもので、陶山と酒を飲んで
いたとき、陶山がおれの妹を貰ってやってくれぬかと言
117 奇人・西田半峰の敗北第II章 歴史批評116
うので、よし貰おうと言ってしまったんだ」。今井によ
ると「半峰と並んでいる写真は大柄な美人で、半峰を凌
ぐ酒量だったという」。敗戦後、半峰が五十歳代になり、
故郷の三重県に隠栖してから、「横浜育ちの女房は田舎
は厭だと」離婚して出ていった。半峰の晩年の奇人ぶり
を知った者には、この奥さんの判断は正しかったとしか
言いようがないけれども、男としては身につまされる話
だ。
 しかし長谷川仁は、半峰とは違って、自らの父親も信
じることができた。そしてまた「私は林子の素朴で明る
い人柄の中に、いざというとき夫を積極的にサポートす
る力強さのあることを、ある程度見抜いていたといえる
かも知れない」と言っているように、伴侶を信じること
ができた。
 この身内に対する深い確信が、時代の流れをも信頼し
て身を委ねてゆくという、もうひとつのダイナミックな
跳ね込みを可能にした。
 近代の流動性というものは、古い大家族制度を解体す
るところに現れてきたはずだ。今日の核家族という形態
が持つ移動性の容易さは近代のものだ。しかし長谷川仁
は一四人兄弟姉妹の第七番目の子として生まれている。
一四人の子供というのはいくら生めよ増やせよの時代と
は言え大家族である。たぶん仁の父・長谷川裕が牧師で
あったということと関係があったのであろう。しかもそ
のマンモス家族が転勤を繰り返して移動しつづける。し
かも貧しい。子供たちは育ってゆく。まったくすごい家
族だ。ぼくの友人の家に三人子供がいても、その騒がし
いことといったらありゃしない。一四人もいたら、いっ
たい、その騒音と乱雑さは、どのくらいのものなのだろ
うか。そして子供特有の生き生きとした生命力のフツフ
ツとした泡だち─ぼくなんかが、この一四人家族の家を
訪問したら、圧倒されてしまって、帰った時にはくたび
れはてているだろうと思ってしまう。
 冒頭に引用した船戸洪が書いているように、日動画廊
には画が「沢山ある」「何んでもある」という特色がある。
しかし、これは、自分が引き受けてゆくことを考えれば、
決してなまやさしいことではない。安いにしろ、ほとん
どなんでも作品を展示するなり、買い取ってゆくという
ことが、いかに苦痛を伴うことか、なんでもいい、自分
で買いつづけてごらんになればいい。他人ごとを見て、
バカにするのは難しくはないけれども、どれほどバカに
できることがらでも自分がやるとなれば、それほど簡単
ではない。〝鈍さ〟も才能である。長谷川仁が、こうい
う「沢山ある」画廊を作り出し、「日動画廊なんか雑貨
屋じゃないですか!」という表面的な反応にもめげもせ
ず、何でもあるデパートのような画商になることに苦痛
を感じないですむ才能を持っていたことの裏には、この
移動しつづける「大マンモス家族」に育ったということ
があるだろう。今様の一人っ子育ちの画商と同じである
はずがないのだ。
 父は自由主義を尊重していたので、家庭はいつも
開放的で明るかった。なにしろ私のあとに七人の弟
妹ができたのだから、子供が合計十四人という大マ
ンモス家族、そのさわぎだけでも、にぎやかになら
ざるを得ないわけである。父は人に対してだれかれ
の差別をつけなかった。食事時など、そこにいる者
はお手伝いさんでもだれでも、一緒に大きなテーブ
ルを囲んで座らせ、みんなで主への感謝の祈りをさ
さげてからハシをとるという習慣だった。有るもの
をみんなで分け合おうという精神である。……
 父の感化であろう、いまでも私は日々、家族や友
人など大勢で食事をするのが好き、というよりごく
当り前のように思っている。また目下、目上の別な
く、私が〝さん〟づけでひとの名をよぶのも、父の
習慣を受けついだものである。
 古い大家族制度が持っていたヒエラルキーも秩序も価
値ももうここにはなく、あるのはアンデパンダン展のよ
うなアナーキズムである。
 このような新しい自由さは、神の前の平等という理念
から生み出されてきたと言えるだろう。そしてこの新秩
序が美術界の中に持ち込まれてくれば、アンデパンダン
画商とも言うべき、芸術のアナーキズムが出現すること
になる。
 昭和一二(一九三七)年頃の日動画廊を、平野喜一郎
は次のように記録している。
 長谷川は青樹社が何んでも高いものを扱うのを鼻
に掛けるのと全然反対に、彼自身の境遇体験からし
て、大衆の愛好者の方へ呼びかける事を考え出し
た。読書界でいえばキング級や講談組を狙った。青
樹社が内外作品へべら棒な価をつけて親父が一般人
を見下して煙を吹こうという所を、彼の店では安く
て大きく手に入る画は、何んでも彼でも雑然と隙間
なく陳列して、彼自身が店員の如くに低頭平身自ら
あっせんする。
 旧帝展系のアカデミイ作品も新派のフォーブやス
ウルの解らない画も、石版画みたいなバラの花も林
檎もトマトみたいな柿も、いささか赤面ものの裸体
画の画でも一堂に集めてゐる。出来のいい作品は
中々見当りにくいが、其の替り値段となれば凡そ画
商中で此所が一番安く買える。
 これが無産階級貯金階級の愛好者の心理を体験し
てゐる彼の商売のコツで、其の成功の因をなしたと
思える。生まれて初めて油あ ぶらえ絵なる物を買って小さな
119 奇人・西田半峰の敗北第II章 歴史批評118
応接間へ掛けて喜ばうと云う客も、油絵番付と帝展
何回入選で成程と思って安く大きな風景画を買う客
も、取り付き易い。買はなくとも、画の好きなサラ
リーマン達は只でふんだんにいろんな画が鑑賞出来
るから、どんどん入って来る。
 良い作品であろうが悪い作品であろうが、ウマかろう
がヘタであろうが、高くても安くても、有名であろうと
無名であろうと、どのような作品にも、差別をつけるこ
となく自分の画廊に並べて、にぎやかに、自由に、ア
ナーキーに、まるで彼の育った大マンモス家族の食卓の
ような画廊を作り出している。
 長谷川仁のプライベートな世界を、このように美術界
に持ち込んだからこそ、力を持ったのだ。他の画商は、
西田半峰も、石原龍一も、鈴木里一郎も、日動画廊と同
時代を生きながら、日動のような商法をあみ出しえな
かったのは、プライベート性がまるっきり違うからだ。
 耶蘇教者というのは、日本文化の中ではついに大きな
力も持てず、定着化もできず、文化的私生児として、認
知もろくにされないまま少数者として差別されて生きつ
づけてきた。流浪する貧乏な耶蘇教の牧師のマンモス
家族に生まれ育ったという特権的なまでに特殊な個人性
が、初めて切り開きえたアナーキーな新興美術市場の世
界─もちろんこの長谷川仁の個人性が時代と出会い社会
的な意味を組織化しえたからこそ、大成功したと言える
のだが。
 ぼくは長谷川仁を商人と考えない方がいいのではない
かとさえ思う。もしかすると商人であったのは林子夫人
ではないのかと、勝手な想像さえしてしまうほどだ。ぼ
くの中のイメージとしての長谷川仁は、一人の組織者と
してある。彼は組織したのだ。日動画廊から作品を買う
ということは、彼に組織化されたということなのだ。大
衆を組織した者として長谷川仁を理解するとき初めて、
藤田嗣治の描いた長谷川仁像が、なぜ若き毛沢東に類似
しているのかを理解できるだろう。この肖像画が描かれ
た時を回顧して、長谷川仁は次のように語っている。
 藤田さんは私の希望を気軽に引き受けてくれた。
そして、まず私からクロッキーをはじめた。しばら
く鉛筆を動かしているうちに「どうもうまくいかな
い」といいだした。
「きみは目がきついんだね、はじめて気がついたよ」
 とうとう、私の素描ができ上るまでに二時間余り
もかかり……(前出『洋画商』)
 絵描きの藤田嗣治さえ、この素描をするまで、長谷川
仁の目のきつさに気がつかなかった。理由は簡単だと思
う。長谷川仁は、素顔を決して画家にもお客にも見せな
いで来た〈大いなる俳優〉だったからだ。
 林子夫人
 長谷川仁は、学生の時に結婚をする。
 関東大震災の翌年の大正一三(一九二四)年、彼は小
石川竹早町に住んでいた。父親の長谷川裕は「牧師を引
退した。本拠を郷里笠間におき、所用のときだけ上京
するという状態に父がなったので、……自然と、災害を
受けずに残った小石川竹早町の家の家長代わりのような
かっこうになった」。
 仁は父親っ子であったが、だからといっても、もう、
長谷川仁は二七歳であった。父親から離れて自立する必
要のある年齢だった。小石川竹早町の家の家長のように
なったことは、彼に開放感と自律心を与えたであろう。
また父親が牧師を止めたことも、長谷川仁を自由にし
た。
 林子は、竹早町の家のすぐ隣に下宿していた。最
初は七分三分で林子のほうが熱をあげたとしておく
(前出『洋画商』)。
 結婚をしたとき、長谷川仁は二七歳、林子は二八歳で
あった。この姉さん女房がいかにしっかりとしていた
か、長谷川仁は次のように語っている。
 さて結婚はしても、私はまだ学生である。生活の
設計をどうするか。林子の提案で家具などを整理し
て貸間業をすることにした。家は借家だが、わりに
広い。風呂場まで改造して人に貸したので、部屋代
と家賃の差引きで四十五円の収入があがった。また
止宿人のうちの四人はまかないつきだったので食費
のほうでも収入があった。まかないは、むろん林子
の仕事である。それでも足りない分は林子が内職の
ミシンをふんで金をつくった。おかげで学生亭主の
私はまったくのんびりしたもので、アルバイトなど
せずに学校に通い、読書に時間を費やすことができ
34 藤田嗣治「長谷川仁蔵」1958
121 奇人・西田半峰の敗北第II章 歴史批評120
た。結婚早々にして妻の〝内助の功〟というところ
である。
 わざわざ、この二人の結婚生活の最初を引用したの
は、日動画廊というのは長谷川仁と林子夫人とのペアな
のだということを確認したかったのである。それともう
ひとつ、この借家を改造して、又貸しをし、さらにま
かないをつけて稼ぐ、さらに内職のミシンを踏むという
この商法に、日動画廊の成功の秘密を見るのだ。つま
り、資本主義社会の中で最も重要で困難な初期資本の蓄
積を、いかに達成するのかという課題に対して、長谷川
仁と林子夫人は、他人の資本でこれを代用するという方
法を採用したのだ。それは後年の日動火災のビルについ
て、宮田重雄に「はじめあのビルの一階を無償で借りて
開店した者がやがてあのビル全体に権力ある者になろう
とは、……」(前出「日本の画商」)と言わしめるほどに
なる。彼らは他人の資本の上に乗って、とことん自分た
ちの労働とサービスを積み重ねてゆくことに徹した。
 昭和三(一九二八)年友人の弟で洋画家であった松村
建三郎の助言で、かつぎ屋洋画商を始めてからでももち
ろん林子夫人は、長谷川仁を手助けしている。
 ……まだ幼い子をかかえて、なかなかたいへんな
のだが、家内の林子にも手伝ってもらうことにし
た。朝、私が目標の画家をひと回りして交渉してか
ら外交に出かける。あとで林子がその画家のところ
へ絵をとりに行き、椽がなければ、それも見つくろっ
ておく、という方法をとった。
 この昭和三年の秋には、竣工した横浜貿易会館の二階
で初めての展覧会を開いている。翌昭和四年の春にも、
また同じ所で同様の洋画大展覧会、続いて五月、落成し
た横浜YMCA大講堂で「YMCA新講堂落成記念洋画
大展覧会」を開催した。
 この頃はしかしまだ洋画商が十分にやっていける時代
ではなく、黒じゅすの帯などに油絵具で花模様を描いた
り、あるいは当時はカラー写真がなかったから、白黒写
真を見て油彩でカラーの肖像画を手描きするといったア
ルバイトもやったという。
 この肖像画商売では、家内の林子も注文取りに活
躍した。あるとき若槻礼次郎男爵の秘書だった松江
出身の代議士木村小左衛門さんに林子が呼ばれた。
芸者を大勢はべらした宴席である。林子のもってい
た見本を酔眼で見ていた木村さんは、だいぶ気に
入ったらしく、「よし十枚頼もう」という。
「えっ、十枚も?」
「なに、くにの学校関係に配ってやるんだ」
 男前が自慢の木村さんは、そのとき、この肖像画
で郷里の人々を大いにうならせようという腹だった
のかもしれない。
 昭和四年の秋には東京で初めての展覧会を洗足幼稚園
で開き、さらに翌昭和五年には、多摩川園で「日本洋画
綜合展」を開く。
 刷りあがった案内状二千枚は郵便局にもっていか
ずに自分たちの手で配ることにした。むろん郵送料
を節約するのが第一の目的だったが、もう一つには
招持するお客さんを自から選ぼうという気持があっ
たのだ。このため、上の男の子二人は私たちの家の
近所のラジオ屋さんに預かってもらい、まだ赤ん坊
の長女をおぶった林子と私は、(多摩川園の)入園
券同封の二千枚の案内状をもって田園調布の町を
ほっつき歩いた。
「ここの人なら多分展覧会を見にきてくれるだろ
う」
「この家ならきっと絵を買うと思うわ」
 ─いちいち家の品さだめをしてから、私たち二人
はそのポストに案内状を差し入れたものである。
 昭和六(一九三一)年東京日本橋三丁目高野ビル一階
に画廊「大雅城」を開いたが、同年九月には閉鎖した。
続いて一一月三日に日本動産保険の社長で経済学博士の
粟津清亮の援助で、京橋区銀座五丁目の同保険会社ビル
一階に「東京画廊」を開くことになった。
 粟津さんのはなしによると、ここにビルを建てる
とき、地主側と契約があったのだそうだ。それは、
西銀座一帯の発展のため、一階だけは事務所にせ
ず、人がよく集まるような商売─たとえばレストラ
ンみたいなものに開放してほしいということだっ
た。……最初の明言どおり、もちろん敷金も家賃も
いらない。……「そうだ、縁起よく十一月三日の明
治節(いまの文化の日)に開店したらいい」……開
店まであと三日しかない。……壁面の改装のほうは、
武蔵小山の家の隣りの大工さんに頼み、その采配は
家内の林子に一任した。私も絵集めに汗だくで駈け
ずり回ったが、林子のほうも大忙しだった。たとえ
ば、壁面に張るシンモスを問屋からカマスで買って
縫い合わせる、そして寸法をはかって壁に鋲でとめ
ると、大工さんがすぐにそれに木枠をはめていくと
いう流れ作業をやったものである。夫婦とも昼夜兼
行の三日間─それは新画廊生みの陣痛の喜びをかけ
た苦しみ、の三日間といえるだろう。……私どもが
考えだした「日動画廊」に店名を変えたのは翌昭和
123 奇人・西田半峰の敗北第II章 歴史批評122
七年一月からで、そのときかかげた金文字の商標は
現在も変っていない。これは林子の遠縁にあたる浅
草の長本という看板屋さんが、一世一代の仕事とし
て引き受けてくれたもので、木をくりぬいて漆を
塗った本金仕立て。……
 長谷川林子を、中川紀元が戦争も押し詰まってきた昭
和一九(一九四四)年に描いている。威風堂々なかなか
の人物の顔だ。お顔も大ぶりだけれども、胆も太い大姉
御でいらっしゃる。日本人というよりは大陸系の風貌で、
ケンカは強そうだ。満州馬賊の女棟梁という趣で、一軍
を率いる器量をお持ちのようだ。並の男はすべて見下す
という気位の高さが描かれている。図版でしか見ていな
いけれども、肖像画としてもなかなか良い絵だと思う。
この林子夫人は七人の子供を産んだという。
 日動画廊開店早々のころ、店で働くものは、私た
ち夫婦だけだった。二人が社長であり社員であり、
小使いでもあった。朝は九時きっかりに表のシャッ
ターを開ける、夜はだいたい八時見当にそのシャッ
ターを降ろす─これはほとんど林子が受けもった。
店内の掃除もむろん林子の担当である。また、私が
画家のところに絵をとりにいったり、お客に絵を届
けたりしている間は、林子がひとりで店番をする、
という状態であった。……
 私どもは、父母の場合のちょうど半分にあたる七
人の子供をつくったが、そのうち下の四人が日動画
廊以来の子である。その子らが赤ん坊のときは、子
守りをつれて林子は出勤する。店で赤ん坊を子守り
に預けて働き、授乳時間がくれば、かげのほうで
おっぱいをやる。夜、お客さんを食事に誘ったりす
るので、帰宅するのが十一時ごろになるのはしばし
ばだったが、それでも寝る前に、林子は湯殿で子供
たちのものの洗たくをする、お手伝いさんはいるの
だが、昼間、家においておく子供たちの面倒をよく
みてもらうために、なるべくお手伝いさんの手をラ
クにしておかなくてはならない、という配慮からで
ある。
 この林子夫人の勤勉さはすばらしいと思う。感動を覚
える。普通の人の三倍も四倍も働いている。こうした勤
勉さと、夫がキリスト教の系譜を持っていたと言うこと
には、関連があるかもしれない。
 ドイツの社会学者・経済学者である。マックス・ウェー
バーは、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精
神」の中で、プロテスタントのキリスト教の精神が、資
本主義の合理性と勤勉さを生んだことを指摘している。
この指摘のままに、林子夫人は、合理的に勤勉に、働き
続けたのである。
 銀座に画廊を持ち、藤田嗣治を初めとする重要な作家
たちの展覧会をやればやるほど、この林子夫人の活躍の
場は広がっていったようである。藤田嗣治との関係の中
での林子夫人の役割を、長谷川仁は次のように語ってい
る。
 ……家庭の席によばれるのは私よりも家内の林子
のほうが多かった。家庭内にトラブルが起こると、
電話がかかってくる。
 「奥さん、ちょっと来てくれよ」
 風雲ただならぬところへ林子がかけつけて、〝ま
あまあ〟の仲裁役をつとめることもあった。作家だ
けでなく、お客さんでも、親しくなると私たち夫婦
は、その家庭内にも入りこむようになることが多い。
これは商売のためにつとめてやるわけではなく、そ
の人と誠心誠意交わっているうちに、つい親戚づき
合いみたいになってしまうのだ。藤田さんの家など
は、そうしたケースの尤なるものの一つである。
 ……私たち夫婦が昭和三十三年に、娘たち、為永
清司・新子夫婦の案内で欧州旅行をしたとき、パリ
でまっ先にたずねたのは藤田さんの家だった。ノッ
クにこたえてドアを開けたのは、東京時0 代とち
がってすっかり白髪頭になった藤田さんだった。君
35 多摩川園での日本洋画綜合展会場の長谷川仁、昭和5年
125 奇人・西田半峰の敗北第II章 歴史批評124
代夫人は、十年ぶりの再会のうれしさから、台所に
かくれて泣いていた。藤田さんは、林子の肩を抱き
かかえるようにして迎え入れ、「よく来たね」とや
さしくいった。あとで林子が述懐したものだ。
「ああして藤田さんに会えたことだけで、私はパリ
に来たかいがあった……」と。
 日本の習俗への帰還
 長谷川仁は、明治四三(一九一〇)年茨城県笠間町立
尋常小学校を終え、私立聖学院中学を経て、大正一一
(一九二二)年明治学院神学部に入学する。
 長谷川仁は牧師の倅として、運命に逆らわずに神学学
校に入って学んではいても、それはあくまでも受動的で
あった。
 彼の父のように能動的にキリスト者を選び取ったわけ
ではなかった。
 仁は、父親・長谷川裕のキリスト教への入信について
次のように語っている。
 長谷川の家は先祖代々、笠間藩の御殿医をつとめ
た家である。父の三代前にあたる宗仙氏が江戸に出
て大槻玄沢門に学んで帰藩したという記録も残って
いる。田舎の小藩ではあるが、新知識も大いにとり
入れる意欲があったとみえる。こういう家なので、
父も青年期には水戸に出て、そこの医学校に入っ
た。それが牧師業に転向したのは、宣教師フルベッ
キの説教をきいて、たいへんに感動を受けたのが動
機だったという。〝肉体の医師よりも、精神の医師
になろう〟という気持に燃えたらしい。父は医学校
の勉学を中途で止めにして上京し、築地の一致神学
校(明治学院の前身)に身を投じたのであった。
 フルベッキは、安政六(一八五九)年一一月に、長
崎に上陸したオランダ改革派教会からの伝道者であっ
た。一八三〇年にオランダに生まれているから、日本に
来たのは二九歳の時であった。明治政府成立後、明治二
(一八六九)年三九歳の時には東京に呼ばれて、開成学
校の教頭としてその経営に当たった。
 長谷川仁の父・裕は、このフルベッキの説教を聞いて
牧師になり、一方、長谷川仁は洋画商となったが、この
牧師と洋画商の間には、何の関係もないように見える。
たしかに何の関係もないのかもしれないが、しかし日本
の西欧文化輸入の流れの中では、この両者は交差し、平
行し、微妙な展開をしているのである。例えば、このフ
ルベッキが教頭となった開成学校について見てみると、
そこには洋画商・長谷川仁を生みだすルーツの一つが潜
んでいるのである。
 開成学校の起こりは、幕府が安政二(一八五五)年
に創設した洋学所に遡る。翌安政三(一八五六)年には
蕃書調所と改称された。この時、川上冬崖は絵図調役
となっている。冬崖はまもなく同所の画学局の出役と
なって、西洋画法を研究しながら後進を指導した。文久
二(一八六二)年には高橋由一が、この蕃書調所画学局
に入り、川上冬崖の指導を受けた。この高橋由一が入所
した年、洋書調所と改称され、翌文久三(一八六三)年
には、さらにこれを開成所と名を改め、維新後には明治
新政府に接収されて名称を開成学校と改めて、明治二
(一八六九)年一月に開校した。教官は旧開成所以来の
もの以外、特に外人教師を雇い、教頭としてフルベッキ
を迎えた。規則によると学科課程も英、仏、独の国別で
あった。川上冬崖も、続いてこの開成学校で教えている。
 開成学校は、西洋近代学輸入の中心で、明治以降の日
本の近代化の源であった。東京における大学設置の基礎
となって、これ以降も改称を繰り返して、東京大学へと
発展した。
 フルベッキは、明治七(一八七四)年、教頭の任期満
了後は、元老院の院外顧問や華族学校の講師となった
が、同時に、この時からキリスト教の伝道活動に専心す
る。長谷川仁の父・裕が説教を聞いたというのは、おそ
らくこの明治七年以降のフルベッキの伝道活動の過程で
であろう。
 長谷川裕が医学校の勉学を中途で止めて身を投じた一
致神学校、この神学校の設立に奔走したのがフルベッキ
であった。フルベッキは晩年ここの教授として教育に一
身をささげるとともに、ヘボンらと旧約聖書の翻訳に従
事し、明治二〇(一八八七)年には「新旧約聖書」を完
成した。「ヘボン式ローマ字」で有名なヘボンは、フルベ
ッキが明治一〇(一八七七)年基督公会と長老教会との
合同に尽力した時の、その長老派の宣教医であったので
ある。
 一致神学校は明治学院となり、長谷川仁は、先に述べ
たように、父親と同じこの学校に大正一一(一九二二)
年に入学している。ところで、この明治学院の初代総理
36 中川紀元「長谷川林子の肖像」、1944
127 奇人・西田半峰の敗北第II章 歴史批評126
となったのがヘボンであった。しかし長谷川仁が入学す
る三〇年も前の明治二五(一八九二)年には日本を去っ
てアメリカに帰国していた。そして明治四四年九月二一
日、ヘボンは、ニュージャージー州イースト・オレンジ
で没した。享年九六歳。このヘボンの死んだ同じ日、日
本の明治学院のヘボン館が焼失した。あたかもヘボン
の日本における三三年間の努力もまた無に帰したように
……。
 長谷川仁の父・裕は、キリスト教の伝道を捨てる。
 父はクリスト教団の伝道にある種の疑問を抱き、
松村介石氏の「道」の運動に足をふみ入れた……。
 ぼくはこの松村介石の「道」の運動というのを知らな
いので、ご存知の方はぜひお教え願いたいが、この転向
の前を、もう少し見ておこう。
 父の福島、仙台の教会時代は東北地方に饑饉の多
いところで、ボロボロの衣服をまとった乞食が食を
求めてあちこちに流浪するという光景がみられたも
のだが、父はよく、そうした乞食の子供を拾ってき
ては、教会の物置に住まわせて食を与えた。そして
シラミだらけのからだをきれいにし、私たち子供の
着物を着せたりしていちおうの人心地をつかせる
と、彼らが安住できる岡山孤児院に連絡をとって、
そこへ送りこむのだった。幼かったので私には察し
がつかないが、こういうことで、母も経済的にずい
ぶん苦しかったにちがいない。社会事業に熟を入れ
る父は、講座派というか、おつにとりすました外人
宣教師がきらいだった。仙台時代には、そうしたこ
とから教会の宣教師マデン師と大激論となり、辞表
をたたきつけるというひと幕もあった。
 長谷川仁の父親が、この牧師生活の中で何を考え、そ
してキリスト教団の伝道に疑問を持っていったのか、十
分には分からない。しかし、その方向の転換は、長谷川
仁にも、引き継がれるのである。
 父・裕が牧師を引退した後、長谷川仁は、隣家に止宿
していた金田林子と知り合い、結婚をする。この結婚式
については、長谷川仁は次のように語っている。
 私たちはその年の九月十五日に、隣家夫婦を媒酌
人にして、小石川の自宅でささやかな結婚式を挙げ
た。笠間から上京した父や、弟妹たちと、友の松村
敏次郎らが参列したが、式はクリスト教に依らず、
自己流の三三九度にした。
 キリスト教という欧米の宗教から、日本の習俗への、
このような帰還を、ぼくは、まず事実として、きっちり
見て行くべきであると思う。まず直視し、よく見るべき
であって、見もせずに、おぞましさに拒否反応を起こし
てがなりたてるべきではない。
 欧米に憧れ、欧米の諸価値に無限に接近を試みようと
する人々はいる。そういう人たちは人たちでおやりにな
ればよい。とくと拝見させていただく。ひとつだけ例を
挙げさせてもらう。ニューヨークに住む日本人アーティ
ストが子供を作った。彼の妻も日本人であった。しかし
彼らは、その赤子に英語でしゃべり続けたのであった。
もちろん英語は彼らの母国語ではない。だからヘタだ。
ヘタな、ニセの英語を聞かされて育った子供は、言語そ
のものを失う。人間が言語を使うという、その本質的な
能力が、このような愚劣な両親のヘタな英語のために、
十分に発達しなくなってしまったのだ。このアーティス
トもまた、自らの子供の無惨さを見て、自らの愚を知り、
二番目の子供からは、日本語で話しかけるようにし、そ
して夏休みには、子供の日本語教育のために、日本に毎
年帰ってくるようになった。
 そう、愚劣さであろうともある頂を極めたところか
ら、逆に向きなおり、かぎりなく〈日本〉へと帰還しつ
づけてゆく道がある。しかし、この帰還は、どれだけ接
近していっても、どうしても〈日本〉と合一できない。
どうしても帰還者と〈日本〉の間には紙一重の、だが深
37 明治学院神学部の学生時代、荷車で八百屋をしていた(左が長谷川仁)。大正末頃。
129 奇人・西田半峰の敗北第II章 歴史批評128
い淵が横たわっている。
 この悲劇を生き抜くことになるアーティストが日本に
帰ってきた。昭和八(一九三三)年、藤田嗣治である。
この藤田との出会いを、長谷川仁は次のように語ってい
る。
 東京・西銀座の数寄屋橋のほとり、日本動産火
災保険ビルの一階に「日動画廊」という金文字の
看板をかかげてから、もう二年近くなる十一月のあ
る日、何人か店に入っていたお客の中に、私は特徴
のある一つの顔をみつけた。オカッパ頭にロイド眼
鏡─そう、新聞の写真ですっかり覚えこんでいる藤
田嗣治さんである。
〝長い海外生活をきりあげて、この世界的な画家が
日本に帰ってきた〟という記事が東京の各紙に出た
のは、つい数日前のことである。私は、壁面いっぱ
いに陳べた油絵に、鋭いまなざしを向けている藤田
さんのところへ進んでいった。 
「藤田先生でいらっしゃいますね。よくおいでくだ
さいました」
 自己紹介を終えるとすぐ、藤田さんを画廊続きの
ティー・ルームに案内した(以上『洋画商』より)。
 初対面の私に、藤田さんはいかにも率直だった。
銀座に一つだけ、しかもできてから二年もたたぬ洋
画専門の画廊が経済的にうまくやっていけるものか
どうかを、質問されたりした。藤田さんが単刀直入
なら、私のほうも正直に、新参の画商であることま
でをお話しした。
 そうした私の応接に、藤田さんはひどく好感をも
たれたようであった。藤田さんは、二年前の昭和六
年に夫人のマドレーヌさんを伴ってパリをたち、中
南米諸国を個展をして回られて、大正二年に外遊さ
れて以来二度目の帰国をされたのも、
「実は、パリは今とても不景気でね、世界中のどこ
よりも絵が売れない─」
 といったことまで、はっきりともらした(以上『へ
そ人生』より)。
「藤田嗣治画伯帰国第一回展」が、昭和九年二月一五日
から二四日まで、日動画廊で開かれた。この展覧会は大
成功であった。
 ベルニサージュの夕方になると、各国の大公使や
日本の貴顕紳士淑女をのせた高級車がぞくぞくと店
の前に横づけになった。立錐の余地もないほど、こ
のような人々で埋まった会場で、粋なチェックの背
広姿の藤田さんが、だれかれとなく親しげにあいさ
つしている。あでやかに着飾った外国高官夫人の手
に片膝をついて接吻する、その派手なマナーも、さ
すが藤田さんだけあって絵に描いたように板につい
ている。なるほど、大きな個展とはこうしてひらく
べきものだ、としみじみ思ったことだ。……
 東京の新聞もこぞってこの展覧会を大きくとり上
げた。出品の六十余点は、外国人も日本人も買って
開催三日で全部赤札がついた。……
 昭和二(一九二七)年の世界大恐慌以来の不景気の中
で、パリの多くの画廊が店を閉じ、エコール・ド・パリ
は終わった。藤田嗣治の帰国だけでなく、多くの日本人
画家が世界各地から日本へと帰還してくる。海老原喜之
助、野田英夫、北川民次、木下孝則、木下義謙、荻須高
徳……。
 そして彼らは帰国第一回個展をそれぞれ日動画廊で開
催している。
 日本回帰は、大きな流れとなった。藤田が帰国第一回
個展を開いた翌年の昭和一〇年、美術雑誌の『アトリエ』
(三月号)は、「洋画壇に動く『日本』的傾向の検討」と
いう特集をしている。藤田嗣治はこの中で「日本人の造
り得る画業」という文章を書き、次のように言っている。
 日本の画家としては、日本人の眼からみた自然の
説明、日本人のもっている技巧によって、洋画材料
を生かす処の油絵こそ面白くもあり、又価値ある仕
事なのではないか。
 現代日本の洋画家が、ピカソ、ルオー、或はユト
リロの画風を模倣することは、現代洋画への理解を
日本人にあたへる功績は一応うなづけるにしても、
その人の仕事としては、単に模倣にすぎないもの
で、何等世の中に貢献する価値は認められないので
ある。
 伝統の保守を破って、よくその国民性を生かし、
日本人に限られて造り得る処の画業こそ、われ〳〵
のなすべきものではないか。かくしてこそ、フラン
ス画界の人達とも相撲がとれると云へるものだと思
う。
 翌月の四月号『アトリエ』でも、再び同じ特集の二が
組まれている。この時期の日本主義は、独立美術協会を
中心としたものであった。この特集の中で、例えば児島
善三郎は「新日本主義に就て」の中で次のように言う。
 今迄の新興流派と云うものが、いつもフランス美
術の追随に過ぎなかったことは新興日本の蔽えない
恥辱ではなかったか。
 美術は国際的なものだと思っている人がある。し
かし民族の精華を発揮しないで潑溂たる生命が何ん
131 奇人・西田半峰の敗北第II章 歴史批評130
で芸術の上に輝かう。……
 新生日本画の台頭! これは勢である。これは日
本の油画の独立である。
 今、新らしく生れ出んとする新日本画は生気溌溂
として世界の画壇をゆすぶり醒ます力あるものでな
ければならない。……
 あと十年したら動ずる事の出来ない、輝やかしい
独特の芸術が確かに生まれる。
 キリスト教であれ、油絵であれ、明治以来の輸入の頂
を極めたところから、〈日本〉へと帰還する困難な道を
歩みはじめる。『日本美術年鑑』(東京国立文化財研究所
刊)の昭和一一(一九三六)年版は、この日本主義の動
向をまとめて次のように書いていた。
 昭和十年の洋画壇を回顧して目立つ現象の一は、
一般の社会思潮に伴って近時起って来た洋画の日本
化或は其への努力が更に顕著になって来た事で、主
要美術団体中最も前衛的で、強く巴里画壇の影響を
受け、国際的な芸術を目指して来た独立展にもさう
した意識的運動が表はれて来た。今春の同展には、
既にさうした傾向にあった林重義を初め、伊藤廉、
児島善三郎、小林和作等の諸会員が……或は日本的
美の表現に努め、或は日本画の特殊な表現法を活用
するに努めて居た。又同展の会員外の出品にも、以
前より日本的要素を多分に有って居た中村節也の作
品は別としても、日本的洋画への意識的努力が看取
された。その中には《日本的》なる意義の曲解から、
ぬえ的作品も見受けられた。
 独立美術協会を中心として、二科や他の団体にも見ら
れたこの日本主義の傾向を日本ファシズムの問題とし
て、敗戦後に否定することはたやすいことだけれども、
しかし、たやすく否定するだけですむほど、問題の本質
そのものは、浅くはなかったのである。藤田嗣治が単な
るアルチザンに見え、児島善三郎の叫びがどれほど青臭
く見えても、この時期に垣間見えたある何ものかは、今
もまだ解決がついていないように思える。
 日本主義を掲げた新興洋画で初めて、日本の油絵は、
日本人の生活世界に着地することになる。この着地化
が、はたしてクリエイティヴであったかどうかはともか
くとして、この着地化を媒介した大きな核のひとつが日
動画廊であった。
 長谷川仁の自伝を読んだとき、ぼくにとって最も衝撃
的であったのは、林子夫人との結婚式の時の三三九度の
杯のシーンであった。キリスト教の牧師の倅が、再び
日本の習俗へ回帰したがゆえに、長谷川仁は、この昭和
一〇年前後の日本主義をひとつの軸とする新興洋画と出
会うことになった。
 長谷川仁は「画商放談」(『美術手帖』昭和三〇年二月
号)の中で、次のように豪語している。
 ……青樹社はその時に老大家をやったり、松方展
をやったりしたが、わたしの方は新興洋画の温床と
いうところだね。
 日動画廊こそが、藤田嗣治の帰朝と、それに続く洋画
の日本主義の傾向と、正面から出会うことができた唯一
の画商だったのである(8)

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