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糸崎公朗さんの真摯な思考(加筆2校正1) [アート論]

糸崎公朗2.jpg
糸崎公朗の顔 (撮影:糸崎公朗による自動シャッタ撮影)

糸崎公朗さんの顔写真です。
糸崎さんには、私のマキイマサルファインアーツでの搬入搬出で助けていただいて、深く感謝しています。

この写真は、搬出時の集合写真の中から切り出したものです。集合写真を撮ったのは糸崎公朗さんで、セルフタイマーによる自動撮影です。

切り出してみると、流通している一般的なイメージとしての、やさしい糸崎公朗さんとは、ずいぶんと違う顔をしています。

何よりも眼が鋭く、口元も締まっていて意志的で、凶暴で、傲岸不屈、自尊心に満ちています。

凶暴ではありますが、しかし軍人の顔ではないし、憲兵や警察官の顔ではありません。

神官や牧師の顔ではないし、哲学者や思想家、インテリゲンチャの顔でもありません。

糸崎公朗さんの顔は、芸術家の顔で、しかも画家の顔をしています。彫刻家ではないし、写真家でもないのです。アウグスト・ザンダーというドイツの写真家が「農民」「熟練工」「女性」「階級と職業」「芸術家」「町」「Last People(ホームレス、退役軍人、など)」と7つのセクションに分けて撮影していますが、その中の「芸術家」の顔写真に類似している要素があるのです。

こういう判断は《言語判定法》という、言葉をこの画像に投げかけて、その木霊(こだま)を取る形で判断しています。その判断には彦坂尚嘉の私的な記憶の集積が反映しているので、客観的な無名性による判断ではなくて、観測している主体である彦坂尚嘉のあくまでも私的な判断なのです。

その《言語判定法》を使って彦坂尚嘉の私的責任による人相分析をしてみると次のようになります。

《想像界》の眼で《第1次元》の《真性の人格》
《象徴界》の眼で《第1次元》の《真性の人格》
《現実界》の眼で《第1次元》のデザイン的人格

《象徴界》の人格
プラズマ人間
《シリアス人間》《ハイアート的人間》

シニフィエ(記号内容)的人間であって、
シニフィアン(記号表現)的人間ではない。

『真実の人』


昆虫写真も撮っておられるので、昆虫が好きな養老孟司さんのように《第6次元 自然領域》の人格なのかと思っていたのですが、顔写真を《言語判定法》で分析してみると《第1次元 社会的理性領域》の人格でした。これは意外であると同時に納得のいく分析結果でありました。

糸崎公朗さんとは何度も徹夜をご一緒していますが、《第6次元 自然領域》の人物は徹夜はやらないのです。つまり徹夜をじさない性格は、《第6次元》ではなくて《第1次元》のものなのです。

そして糸崎公朗さんは味覚のセンスが私なんかよりも良い方で、一緒に美味しいレストランに行くと、率直で適切な反応を口にしてくれる楽しい人なのですが、これも《第1次元 社会的理性領域》の人物であると分かると、納得がいきます。なぜなら料理というのは《第1次元 社会的理性領域》のものであるからです。《第6次元 自然領域》の人は野蛮で、味覚も自然主義で、料理という人工性を理解できないのです。《第1次元》、つまり《1流》の人でないと、料理を理解し、楽しみ、語る事はできないのです。糸崎公朗さんは、すぐれて《1流》の人物なのです。


もう一つ意外なのは、《象徴界》の人格を持っておられる事です。最近はずいぶんと読書をなさっておられますが、その辺も納得できる分析結果であります。


もう一つの驚きは、プラズマ人間であるという事です。つまり新しい現代の人格であって、その辺が、なかなか私は見落としていたのですが、実際にデジタルカメラのウオッチャーでいらして、プロとして批評を連載なさってておられることのも、納得できる分析結果でありました。

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最近、糸崎公朗さんのブログで、「科学と宗教」という長文のシリアスな文章を書かれています。

その最後が、次のようなものでした。

宗教も、科学も、芸術も、その本来の目的は「認識の外側」へ開かれている、ということではないかと思うのです。しかしそれは理想論であって、ぼくのように対して頭のよくない凡庸な人間は「サル知恵」でどうにかしなければならないわけです(笑)。

彦坂尚嘉の《言語判定法》を使った人格分析でいえば、まず、糸崎公朗さんは凡庸ではないし、「サル知恵」ではないのですね。
問題があるとすると、《1流》であることです。《1流》というのは《社会的理性領域》であって、あまりにも社会的理性領域が強くて、非合理なものや、価値の多様性を理解できないのです。

彦坂尚嘉的に言えば、世界はⅠ00次元のディメンションの重層によって成立しているので、一つのことがらについても、Ⅰ00通りの理解や解釈があるのです。糸崎公朗さんが議論している哲学や宗教そのものが、実は100次元の意味の重層によって成立しているのですが、糸崎公朗さんはそれを《第1次元 社会的理性領域》だけで切って理解しようとする還元主義の論を進めておられる。
それは無理なのです。

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糸崎公朗さんは、自らの《1流》性を理解しないで生きて来ておられるように思います。《第1次元 社会的理性領域》である人格なのに、《第6次元》的な直接性に依拠する傾向があるのです。美術家としても、もっと多様で、《ハイアート》としての作品をつくりえる人物であると思います。

芸術を「非人称芸術」として見る見方は、間違っているのではなくて、正しいのです。つまり芸術には2種類があって、《人称芸術》と《非人称芸術》の2つがあるのです。この二つは、どちらも重要なのであって、糸崎公朗さんは、非人称芸術を選択したのです。

《非人称芸術》というのは、民衆芸術とか、フォークロア、大衆芸術に見られる構造なのです。原始美術にも見られる性格であって、人間の基本である動物としての存在に密着した芸術の基礎であり、基盤を有するものなのです。

つまり彦坂尚嘉の用語を使うと、《自然芸術》と、《文明芸術》の2種類があって、この2つはしかし相互に影響し合って複雑に入り組んでいるのですが、その混乱を、糸崎公朗さんは、「非人称芸術」として論じて来たのです。
ただ普通には、「非人称芸術」という民衆芸術や大衆芸術というのは《第6次元 自然領域》であるので、糸崎公朗さんの《第1次元 社会的理性領域》の人格とは、実は齟齬や矛盾があるのです。この齟齬や矛盾が、糸崎公朗さんの作品の複雑さを生み、魅力あるものにしているのです。同時に糸崎公朗さんを苦しめ、悩ませていると言えます。

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